日本音楽学会中部支部 第118回例会報告〈ICSAF(インターカレッジ・ソニックアーツ・フェスティバル)との合同開催〉

日時:2016年(平成28)12月10日(土)13時00分〜(ICSAFは12月10日(土)、11日(日)の両日開催)

場所:名古屋市立大学芸術工学部部(北千種キャンパス)芸術工学棟 M101教室および大講義室

司会:水野みか子(名古屋市立大学)

<研究発表>

籾山陽子(名古屋市立大学研究員)「特殊モーラの歌詞付けの相違の歌唱音響への反映」

<ICSAF/日本音楽学会中部支部 合同シンポジウム>

「大学・大学院教育における研究と作品創作」
 パネラー / 小鷹 研理(名古屋市立大学准教授) 塙 大(名古屋市立大学准教授)
 司会 / 水野 みか子(名古屋市立大学教授)


【発表要旨】

籾山陽子(名古屋市立大学研究員)

「特殊モーラの歌詞付けの相違の歌唱音響への反映」

 ルネサンスからバロック期のイギリスの声楽曲では、音韻史において音節数が増減する語の変化の前後の形を曲中に並存させることにより歌詞付けに自由度を得ているが、これと類似の現象は現代の日本語曲にも見られる。日本語の声楽曲では基本的に歌詞の1モーラに1音を割り当てるが、特殊モーラ(長音、二重母音の後半、撥音、促音)については単独で1音を割り当てる場合と前接する自立モーラと合わせて1音を割り当てる場合がある。曲中に両者が並存している場合も多く、この柔軟性が歌詞付けに表現の自由度を与えているとみられる。
 このような歌詞の割り当ての違いがいかに音響に反映されるか、特殊モーラそれぞれにより差異があるのかを解明し、単なる歌詞の割り当てにとどまらない歌詞付けによる歌唱表現の効果を追究すべく研究を進めている。本発表では、撥音についての分析を行い、先に分析を始めている促音の場合と比較することにより、これらの相違やそれぞれの歌詞付けの違いが音響に如何に反映されるかを分析・考察した。
 モーラmoraは、もともと西洋古典詩で音節の長さを測る単位として使われたラテン語で、単語の長さを表す単位である。現在の用語としては、1958年にトゥルベツコイN. S. Trubetzkoyが世界中の言語を音節を基本的韻律単位とする「音節言語」(英語等)と音節より小さな単位であるモーラを基本的単位とする「モーラ言語」(日本語等)に大別したことに遡る(トゥルベツコイ 1980: 180- 244)(1)。日本語について、服部(1960: 246-248)(2)が音韻的単位としてモーラのほかに音節も認めて説明し、それ以降の議論も踏まえて、窪薗が日本語にも英語にもモーラと音節の概念両方が関係するという理論をまとめた(窪薗・太田 1998: 4- 8)(3)。特殊モーラは独立したモーラを形成しながら独立した音節を形成しないもので、単独で音節を形成できる自立モーラと区別される。歌唱において特殊モーラに1音符を当てる場合と前の音符に含める場合があることについて、窪薗(1999: 253)(4)は言語学的視点からはこれらの並存の理由を説明することが難しいとしている。本発表では、歌唱の場合は曲により音高、音価、強弱等の遷移の状況が異なることから、音楽的な要求でそれぞれが出現する場合があると考え、音高や音価の条件が異なる歌詞付けについて歌唱の音響の違いを考察した。
 歌唱データの取得に際しては、音楽に基づき歌詞付けがなされているものとして翻訳歌の多い讃美歌集を用いて、特殊モーラを含む歌詞の割り当てが異なる部分を抽出した。採録は愛知県立芸術大学にて行い、声楽専攻の大学院生8名に抽出した各フレーズについて歌詞の朗読と歌唱を行ってもらった。これをPCで起動させた音響音声学的分析フリーウェアPraat(Version5.4.12)により録音しデータを取得した(サンプリング周波数44100Hz、モノラル録音)。採録に際しては趣旨を説明し日本語の歌唱として理想的な演奏をするよう依頼した。
 採取したデータはPraatにより音声波形やサウンドスペクトログラム等を表示し、そこから持続時間やフォルマント等を読み取り分析した。今回は性別・声域の差が出る可能性も想定して、ソプラノ、アルト、テノール、バスから各1人の歌唱データについて、撥音を含む「信仰」「みんな」「感謝」を含むフレーズの分析を行い、「待って」「代わって」「復活」「歌った」「ラッパ」について分析した促音の結果と比較考察した。
 考察の結果、撥音では、前接する自立モーラと合わせて1音の場合は前接の母音をベースに撥音を歌うようなフォルマントの重なりが見られたが、単独で1音の場合は前接の母音から撥音へのフォルマントの切り替えが見られ、歌詞付けの違いの音響への反映が見られた。促音の場合はいずれの歌詞付けでも、促音の割り当てられている音符で前接の母音が引き続き歌われた後に促音が歌われる。しかし前者では時間的な遷移が明確なのに対し、後者では前接の母音をベースに促音を歌うようなフォルマントの重なりが見られた。これらから、撥音と促音ではフォルマントの重なる場合が対照的であることが明らかになった。
 また、促音では1拍の時間と朗読時の促音の長さが近い場合以外は朗読の場合の長さで促音が発音されるが、撥音の場合は朗読時の長さと無関係に発音されている。前接モーラと合わせて1音の場合、前接母音と撥音との割合が2:3や3:2等、等分にはならない傾向が見られるが、その場合にも撥音の長さが後続の拍の単位となっている点が特徴的である。単独で1音の場合は、促音では無音になるのを防ぐために前接の母音を持ち出す必要があり、音高の変化の有無でも扱いが異なるが、撥音ではそのような対処が必要なく、撥音の後続子音が撥音側か後続母音側いずれかに付くことで1:1の比を作って歌われる。以上から、促音は音楽の流れの中で促音本来の持続時間を優先するが、撥音は音楽により持続時間を変化させて音楽のリズムを積極的に作っていく、という特性の違いも明らかになった。なお、個人差はあるものの性別・声域による有意な差異は見られなかった。
 以上のように、特殊モーラのうち撥音と促音の歌詞付けの相違が歌唱音響へ反映される状況が浮かび上がってきた。また、撥音と促音の音楽における特性の違いも明らかになった。作曲者が音響の差異を意図して音楽的な理由から歌詞付けを選択している場合も十分あり得ると考えられ、音楽的な要求による歌詞付け選択の研究への手掛かりが得られた。
 撥音の場合は出現データが少なく、音価の比のヴァリエーションが少なかったため、今後も他の曲集等を用いて引き続き実在する曲について調査を続ける予定であるが、将来的には音価操作したデータ等も用いて分析を進めて行きたいと考えている。

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(1)トゥルベツコイ、N. S.(1980)『音韻論の原理』長嶋善郎訳、岩波書店
(2)服部四郎(1960)『言語学の方法』岩波書店
(3)窪薗晴夫、太田聡(1998)『音韻構造とアクセント』研究社
(4)窪薗晴夫(1999)「歌謡におけるモーラと音節」『文法と音声Ⅱ』音声文法研究会編、くろしお出版


<傍聴記>

ICSAF/日本音楽学会中部支部合同シンポジウム

成本理香(名古屋市立大学研究員)

 ICSAF(インターカレッジ・ソニック・アーツ・フェスティバル)と日本音楽学会中部支部合同シンポジウムが「大学・大学院教育における研究と作品創作」と題して、名古屋市立大学芸術工学部の小鷹研理、塙大の両名をパネラーとして、水野みか子司会により名古屋市立大学芸術工学部北千種キャンパスにおいて開催された。
 シンポジウムは、小鷹、塙の発表、その後両名による対談、フロアからの質疑応答と討論という順序で行われた。
 まず始めに小鷹が「僕が見て来た工学の風景、アートの風景」と題した発表を行った。自身の経歴から、工学、アート、デザインという3つの分野をそれぞれ工学「目的至上主義」、アート「プロセス重視(目的がなくても始められる)」、デザイン「コンセプト重視」とし、そこから『アート系の制作は「工学系論文」のフォーマットにのるのか』という論点を提示した。偏った思考の型に陥らないために工学を他の学問領域と並置させる環境づくりは良いが、制作を工学的なフォーマットに回収して説明すること・審査することの困難に関する共通了解を持つべきであるとした。
 続いて塙が「名市大芸工の研究・制作をみてきて思ったこと」と題して発表を行った。それまで行って来た情報工学分野での研究において常に求められて来たことは、新規性、有用性、信頼性、了解性であったが、名市大に来て「作品」「制作」というシステムは一体なんなのか、また、どのような視点や基準で審査すればよいのかわからないという戸惑いについて語り、そこから「どんな要件を満たせば『作品』『作品のための研究』と言えるのか?」という疑問と、そこにはやはり何らかの基準や要件が必要なのではないかとの問題提起をした。
 その後2人の対談が行われた。「研究」がサイエンスのフォーマットにのるには、再現性は絶対条件であるが、「作品」はそれ1つのみだからこそ価値があり再現出来てしまったら意味がないという面も持つとも言える。アート、デザイン、工学をつなぐために、人文系をうまく組み込むというところに可能性があるのではないかとの意見などが示された。
 最後に、フロアからも意見が出された。制作と研究(論文)の折り合いをどう付けているのか、また実際にどのように審査されているのかなどについて、首都大学東京、東京電機大学、愛知県立芸術大学などの実例が紹介された。活発に意見交換が行われ、大学・大学院教育における研究と作品創作について、他大学のシステムや情報を得る貴重な機会にもなり、参加者にとってはこのシンポジウムが様々な発見をもたらすものになったと言えるであろう。