第110回例会報告

日本音楽学会中部支部 

日時:2014年(平成26)3月22日(土)13:30〜16:30
名古屋市立大学芸術工学部 大講義室(図書館2F)


司会:籾山陽子

【卒業論文】
 畑 陽子(愛知県立芸術大学音楽学部):「革命後のキューバにおけるヌエバ・トローバ――シルビオ・ロドリゲスの作品を中心に」

【修士論文】
 杉山 怜(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程):「イヴァン・ヴィシュネグラツキーの『四分音による早稲の手引き』」

【講演】
 久留智之(愛知県立芸術大学教授/作曲家)
  「インド・ムンバイ市のスラムの子ども達の、音楽による心身の発達促進及び自立力向上のための指導者養成計画」



【発表要旨】

畑 陽子(愛知県立芸術大学音楽学部)

革命後のキューバにおけるヌエバ・トローバ―シルビオ・ロドリゲスの作品を中心に―

 ヌエバ・トローバとは、革命後のキューバにおける音楽家たちによる歌の運動である。また、その歌自体もヌエバ・トローバと呼ばれる。ヌエバ・トローバの運動は、ラテン・アメリカ諸国の革命をとりまく社会現象の一部として、社会科学的な視点からいくつかの考察がなされている。
 キューバでは1959年に革命が起こり、米国との敵対関係が形成された。また1960年代には、キューバは社会主義国家となった。社会科学的視点から、とりわけヌエバ・トローバが注目を浴びる理由として、アーティストたちの服装や作品などにみられる米国文化への傾倒が当時のキューバと米国との関係や社会主義的な文化政策と矛盾していたことが挙げられる。これらのことが指摘される際には、彼らの服装や言動、活動や政府との関係などについて言及されることがほとんどで、楽曲分析をもとに、米国音楽や商業音楽への傾倒を具体的に示した研究はみられない。本研究は、ヌエバ・トローバの作品を音楽的に分析し、先行研究で指摘されている米国音楽からの影響を具体的に示すことを目的とした。また、社会的背景を考慮したうえで、それらの分析をもとにヌエバ・トローバが持つ性格を再考察することで、今まで行われてきた社会科学的な研究に音楽学的視点からの考察を加え、社会的なプロパガンダとしてみなされてきたヌエバ・トローバの音楽作品としての評価を試みた。
 革命後、新政府が樹立したキューバでは、当時20歳前後だったヌエバ・トローバのアーティストたちによって様々な歌が歌われた。キューバ革命への称賛や新政府への賛同が歌われることも多かった一方で、日々の生活における不満を歌った歌もあった。後者はしばしば「反政府的」とみなされ、政府にとって脅威となり得るものだった。さらに、彼らの歌のスタイルが米国のフォーク・ロックと類似していること、また、当時キューバでは米国文化であるとして禁止されていたジーンズの着用や男性の長髪がみられたことは、一層政府の監視を強めた。1960年代から1970年代初期におけるヌエバ・トローバは、政府から「反政府的」であるとして検閲の対象となり、抑圧された。その一方で、一部の機関からは、キューバの当時の現状を改善し、さらに革命を促進するものとして擁護されていた。キューバ国営映画庁付属の音響実験集団GES (1969-1978) は、ヌエバ・トローバのアーティストたちを受け入れた機関として注目すべきである。ここでの活動をきっかけに、彼らは1960年代末から1970年代にかけて、電気・電子楽器の使用や外国音楽からの要素の導入などの新たな試みを開始した。当初は外国音楽の要素や電気・電子楽器の使用は、政府から「文化的植民地主義」として抑圧された。この時期に、政府とアーティストとの関係は最も緊迫する。
 本研究では、彼らの行った新たな試みの例としてシルビオ・ロドリゲスの《銃対銃》の楽曲分析を行い、外国音楽からの影響を示した。この作品において、使用される楽器やリズムなどにジャズやロックなどの外国音楽からの影響が見られると同時に、キューバの伝統的な音楽の要素も失われていないことが分かった。先行研究において外国音楽の要素や最新音響テクノロジーの使用が強調されがちであったが、作品の根底にはキューバの伝統音楽の要素が流れていることが明らかになった。
 1970年代中ごろになると政府の文化政策の方針の転換によって、外国音楽の要素や電子・電気楽器の使用はある程度容認されるようになり、また、ラテン・アメリカ諸国との交流が積極的に行われるようになった。さらに、国家的トローバの運動MNT (1973-) の展開によってヌエバ・トローバのアーティストたちは国家公認の地位を得た。1970年代中期以降、急激に変化したトロバドールたちの地位、また、国家を挙げたラテン・アメリカ諸国との文化的交流、それによってヌエバ・トローバの作品にどのような変化が起こったのかに着目し、シルビオ・ロドリゲスの《理由と運命》の分析をもとに考察を行った。この作品では、使用される楽器やリズムにおいてキューバ音楽と外国の音楽の完全な融合がみられた。MNTの運動の展開によって政府公認の地位を手に入れたヌエバ・トローバのアーティストたちには、過去のキューバの音楽表現に回帰するのではなく、新たな表現を模索し、同時にキューバらしさを追求する姿勢がみられた。この作品におけるキューバ音楽と外国音楽の融合は、1960年代から続いたヌエバ・トローバのアーティストたちと政府との闘争の結果、どのように両者が歩み寄ったかを例示している。
 ヌエバ・トローバのアーティストたちは、1960年代、政府から抑圧される状況下においても、また、1970年代中期以降公式の地位を手に入れた後も、変わらず新しい表現を模索し続けた。その一方でキューバの音楽の要素を失わない彼らの姿勢には、革命後のキューバにおける文化的閉塞の打破とキューバの文化発展への意識が反映されている。


杉山 怜(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程)

イヴァン・ヴィシュネグラツキーの『四分音による和声の手引き』

 イヴァン・ヴィシュネグラツキー Ivan Wyschnegradsky(1893-1979)は、微分音を用いた作品を作曲した作曲家である。彼の著作『四分音による和声の手引き Manuel d'harmonie à quarts de ton』(1932、再版1980)には、四分音による作曲のための方法が理論的に提示されている。本論文では、この著作が書かれた1930年頃までのヴィシュネグラツキーの生涯を、ヴィシュネグラツキーの妻であったルシール・ガイデン Lucile Gaydenによる伝記をもとにして概観し、さらに著作『四分音による和声の手引き』が目指しているものを考察した。また、この著作の内容をより広く紹介することを目的として、その全文を日本語訳し、別冊付録として添付した。
 本論文は全4章で構成した。第1章では、ルシール・ガイデンの伝記をもとに、この著作が執筆された1930年頃までのヴィシュネグラツキーの生涯を概観した。1893年にサンクトペテルブルクで生まれたヴィシュネグラツキーは、1920年に四分音ピアノの製作を試みるためパリへ向かい、その後1922年にはベルリンへと旅立ち、四分音ピアノの製作の試みを続けるとともに、四分音の作曲家たちと親交をもった。その後1923年にパリへ帰還した後、ヴィシュネグラツキーは四分音による作曲活動を再開させ、1929年にはフェルスター社の四分音ピアノが彼のもとへ届けられた。これらのことから、1930年頃にヴィシュネグラツキーは四分音に対して精力的にかかわっていたことが明らかとなった。
 第2章では、ヴィシュネグラツキーの『四分音による和声の手引き』の序論・第1部で述べられている、四分音の予備的な基礎と新しい音程の概念、四分音の古典的な和声法への導入について明らかにした。ヴィシュネグラツキーは四分音を「平均律の半音を2つの等しい部分に形式的に分割したもの」と定義したうえで、独自の四分音の変位記号を導入し、四分音による新しい音程の概念を提示している。また、古典的な和声法への四分音の導入として、変化装飾音や半音階的経過音などの臨時音としての導入、変化和音への導入、転調の枠組みの中での四分音の調としての導入という大きく3つの導入が提示されており、これらの導入の検討を、四分音の有機的なシステムへと発展させるための準備段階とも位置づけていることが明らかとなった。
 第3章では、『四分音による和声の手引き』の序論・第2部と付録で述べられている、ヴィシュネグラツキーの四分音の音程による音階の概念、四分音の無調的な使用に対する考え方、調性と無調性の混合の形式についての考え方、音響的な四分音の概念についての考え方を明らかにした。四分音の音程が導入された24音が用いられるシステムが「四分音のシステム」と表現され、サイクルの最初の音に至るまでの間に四分音のシステムの音がどれくらい現れるかによって「完全なサイクル le cercle complet」と「不完全なサイクル le cercle incomplet」に区別され、不完全なサイクルは完全なサイクルと比べて使われる音の数が少ないという特徴をもつものであることが明らかになった。そして、四分音によるさまざまな音程の組み合わせによってつくられた音階の構成音を基音として定義したものを「造成音階 les échelle artificielles」として、それらを規則的音階、半規則的音階、不規則な音階の3つに分類し、さらに、調性と無調性を2つの両極端としてとらえ、無調性の極を調性の消失としながら、調性と無調整の中間の混合の形式について検討していることが明らかとなった。
 これらのことから、第4章では結論として、ヴィシュネグラツキーが四分音に精力的に取り組んでいた時期に『四分音による和声の手引き』が執筆され、この著作が、従来の和声法の中に四分音を導入することによって四分音による音楽を生み出し、それを無調性の極と対置させながら、調性と無調性の間の混合の形式の中に四分音による音楽を見出そうとしていたことが明らかとなった。
 今後は、この著作が、20世紀に書かれた微分音音楽に関する理論書の中でどのような位置を占めるものであるのかを明らかにすること、「有機的なシステム」の背後にある思想を明らかにすること、この著作の内容が作品の中でどのように表れているのかを分析することを課題としたい。



【講演概要】


久留智之(愛知県立芸術大学教授/作曲家)

インド・ムンバイ「光の教室」におけるJICA(国際協力機構)「草の根技術協力事業」報告
 ―「スラムの子ども達の自立力向上のための音楽指導者養成計画」に関わって―

  この事業は、ムンバイのダラヴィ地区に住む子ども達を音楽・ダンスを通じてエンパワーメントする活動で、本講演では現地で実際に子ども達と現地の教師達に行ったワークショップを再現する実践報告という形で行われた。
 講演はまず作曲家である講演者がこの事業に関わるに至った経緯の説明から入り、次に最終の成果発表であるステージを含む動画 “The Little Stars”(YouTubeにアップされている)を部分上映した。その後事業の概要について、「光の音符」(NGO) によるJICAへの事業提案書及び業務完了報告書より抜粋して作成したレジュメに沿って以下のように解説した。

1)スラムの現状について
 ムンバイ市ダラヴィ地区のスラムの状況について主に貧困からくる健康問題をはじめとした諸問題について説明した。

2)インド側の取り組みについて
 ダラヴィ地区で主にハンセン病医療と患者のリハビリや社会復帰の支援をしているNGO “BLP(Bombey Leplosy Project)”とその地区に居住するハンセン病患者の子ども達のための識字教室の運営をしている一人の老シスターの活動について説明した。

3)日本側の支援体制について
 1994年から障害のある人とない人が共に楽しむ音楽の場所の創造」を目的として、日本各地で活動してきた音楽のボランティア・グループ「光の音符」(NGO)は、出張コンサートを通じて交流を深めてきた日本のハンセン病療養所の人々からの非常に篤い支援を受け、また日常の様々な活動で接する市井の人々からの支援も得て、「光の教室」の運営資金をインドに送り続ける役を果たしている。インドにも数回訪問し交流を重ねる中で光の音符がJICAの「草の根技術協力事業」に企画を応募し採択され2011年より3年間実施されたものである。スタッフとしては、光の音符スタッフの他に各専門家と数多くの大学生によるボランティアが関わっている。

4)目的と方法
 差別されることに馴れてしまっている教室の子ども達に、「人間としての自立」を促すことを目的とし、音楽・ダンス・絵画などの情操教育のプログラムを、心身の発達の促進、協調性・自立心の確立という明確な目標のもとに子ども達自身による「表現集団」を結成して、スラム内外での公演活動の基盤を創る事業として展開した。公演活動を通して、子ども達が住むスラムの文化、楽しみ等も広く伝え、協力者の獲得によって、地域社会と一体になった、より多くの子どもに対応できる教育環境を整えていくことを、将来の大きな目標としている。具体的活動としては、活動1-1:インド人教師による基本的な歌、ダンス指導と日本人指導者によるリコーダー等の器楽演奏指導、活動1-2:両国指導者による、最適なマニュアルの作成、活動1-3:詩の作成指導、及び子どもの詩による歌作り(日本人作曲家)、活動2-1:日本人指導者と子どもによるタイコ等の音具の作成、活動2-2:音具を用いた身体機能訓練(コミュニケーションのための下地作りとして)、活動2-3:音具によるコミュニケーションの指導、活動2-4:上記指導法の技術移転、活動3-1:ステージ発表準備(リソースパーソンの指導の実地訓練も兼ね、日本人演奏家、ダンサーによる専門的指導も行う)、活動3-2:地域・企業等への広報などである。またそれぞれの成果達成の指標としては、指標1:音楽、ダンスの基本技術が身につき、子ども達の感情の表現力が向上する。同時に、子ども達が詩作を通し、独自の表現を行えるようになり、これらの指導技術を訓練された人材が確立される。指標2:音具による言語外でのコミュニケーションが可能となり、子ども達の社会性が育まれる。同時に、この活動を通し、身体機能の改善が図られ、これらの指導技術が移転される。指標3:地域の親の理解を促し、企業等からの支援を獲得することにより、継続される素地がつくられるということが挙げられている。



5)成果
 最終的にスラムの子ども達をミュージカル仕立てのステージに立たせスポットライトを浴びさせるという体験をさせるという当初懸念された目標は達成された。これには日本の大学生達のボランティアによるサポートが大きく寄与していたように思う。また発表後様々な現地の協力者が次々と現れ、この事業の日本側スタッフの撤退後も継続される環境が整いつつある。


写真1.スラムの子ども達


写真2.ダンス練習中

拙作「ムンバイの子ども達の歌 ―メイキング・ア・メロディ《あなたは何が好き?》―」について
 講演者は所謂現代音楽の作曲家であるが、作曲家は日頃からあまり社会の役に立っていないのではないかという忸怩たる思いがあり、今回の思いがけない企画との出会いから真剣にこの企画に音楽家として向き合った。スラムの子ども達を相手に何が有効か、その場に適した方法論を開発し、音楽的な質を落とさずに新たな美を追求するというのは、非常にチャレンジングな作業であった。楽器などは一切使えず、現地語(ヒンディー語、マラティ語による子ども達に直接取材したテキスト)によるメロディだけのワークショップ用作品である。現地でのワークショップを念頭に置き、生きたメロディの出来上がる過程そのものを作品化したものとなっている。音勢等ニュアンスのヴァリエーションを伝達するツールとして優れる「口伝」を採用している。五線譜は一切用いず、また理論的説明も一切行わずにボディパーカッションと口伝により音楽的コミュニケーションを図った。授業は主に英語で行い、適宜現地教師がマラティ語に通訳をしながらすすめられた。

おわりに
 最近では文化的事業がこのような貧困や差別から生じている問題を解消している成功例がいくつかあるようです。(オーケストラ教育からの成功者の輩出がスラムの子ども達に人生の希望を与えているベネズエラの「エル・システマ」やサーカス教育がノー・リミットのキーワードをもとに同様の効果を生み出している「シルク・ド・ソレイユ」の例がある。)これらの成功例に習い、本プロジェクトもオリジナルのシステムを見えやすい形で整え、インド型の新しいモデルケースとして世界に発信出来ればと願っております。報告者はこの企画のほんの一角に関わっただけですが、いまだに紛争や貧困等の問題があふれる現代社会にあって、一条の光が差し込むような清々しさを覚えるこの事業は広く世間に知っていただきたく、今回の貴例会で発表の機会を与えていただき深く感謝いたします。