第107回例会報告

日本音楽学会中部支部 

日時:2013年(平成25)3月16日(土)13:00〜16:30
名古屋芸術大学音楽学部(東キャンパス)1号館702教室


司会:安原雅之(愛知県立芸術大学)

【卒業論文】
 飯沼七海(名古屋芸術大学音楽学部):雅楽の演奏の場の移り変わり

【修士論文】
 國枝由莉(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程 鍵盤楽器領域)
      クロード・ドビュッシー《ピアノ三重奏曲》:出版譜の校訂をめぐって―自筆譜との比較と検証—
 深堀彩香(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程 音楽学領域)
      Music and Jesuits in Japan and Macau: A Historical Overview from Sixteenth Century to Eighteenth Century
      [イエズス会と音楽:16世紀から18世紀の日本とマカオを中心に]

【博士論文】
 籾山陽子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程 音楽学)
      ディクションの視点によるヘンデル《メサイア》研究―ヘンデルの歌詞付けの正当性—

【新刊紹介】
 小林ひかり アーリング・ダール『グリーグ――その生涯と音楽』小林ひかり訳
      東京:音楽之友社(2012年発行、384頁)



【発表要旨】

飯沼七海(名古屋芸術大学音楽学部)

雅楽の演奏の場の移り変わり

 雅楽は、5~9世紀にかけて古代中国、朝鮮、アジア各国から日本に伝えられた音楽である。平安時代に宮廷音楽として取り入れられて以来、演奏の場は宮廷に関わる場所に限られてきた。しかし平安以後、雅楽の演奏の場は地方の大きな神社へと広がりを見せる。さらに、明治時代の大改革によって、雅楽は一般人にも伝承され、その結果、民間の雅楽団体が数多く誕生するようになる。そして、これらの民間の雅楽団体は、大正、昭和、平成と時代を追うごとに増加の傾向を見せている。
 今回の研究では、現在の日本における雅楽界の現状の一端を明らかにするために、日本国内の98の雅楽団体にアンケートを郵送し、「1.団体の会員数」、「2.会員の性別」、「3.会員の年齢」、「4.団体の創立年」、「5.団体の創立の経緯」、「6.今日の演奏の場の変化」の計6項目について尋ねた。その結果、全体の60%にあたる51団体から回答を得ることができた。
 それぞれの項目の結果を見てみると、「1.団体の会員数」については、平均して10人以上30人未満の会員が在籍している団体がほとんどである。
 「2.会員の性別」は、男性80%、女性20%で構成されている団体が非常に多く、女性のみで構成されている団体は少数であった。この結果から、現代においても雅楽は「男性の音楽」の傾向が強いことが伺える。
 「3.会員の年齢」を見ると、40-50代の人数が最も多く、雅楽団体はこの年代が中心となって活動をしている様子が読み取れる。また今回の調査では、興味深い結果も得ることができた。それは小学生の人数が、40~50代、20~30代、60代以上の人数に次いで多かったことである。雅楽団体の中には、成人が中心となって構成している団体とは別に、子どものみが在籍する「子ども教室」を設置している団体も見られ、幅広い年齢層で雅楽が楽しまれている様子が明らかになった。
 「4.団体の創立年」を時代ごとに見ると、明治創立の団体が2団体、大正年間創立の団体が1団体、昭和時代に創立の団体が26団体、平成に入ってからは16団体が創立されていることが分かる。
 「5.団体の創立経緯」に関しては、51団体それぞれで異なった。最も多かったのは、「神社、仏閣での祭祀に雅楽を取り入れ、奉楽および舞楽を行なうために雅楽団体を創立したという」理由で、22団体と全体の約40%を占めていた。
 「6.団体の創立から今日まで、演奏の場に変化が生じたか」と尋ねたところ、「変化なし」と回答したのは51団体中26団体、「変化あり」と回答したのは22団体、回答なしは3団体であった。「変化あり」と回答した団体からは、具体的な例として、学校、市の公共施設、イベント会社、結婚式場などからの演奏依頼が挙げられた。また、雅楽団体の中には、自主的に定期演奏会を開いている団体も数多い。これらのことから、雅楽の一般人への広がりを伺い知ることができる。
 また最近、民間の雅楽団体への要請として多いのが、「教育現場への出向依頼」である。
 このことは、文部科学省が平成14年度から、日本の伝統文化に重きを置いた学習指導要領を施行したことに起因する。現場の音楽教師が雅楽に関する知識や楽器の演奏技術に乏しいため、地域の雅楽団体に雅楽のワークショップを依頼するケースが増えているのである。本学でも年に1回、市内の小学校へ雅楽の体験授業に出向いているが、子どもたちは、初めて見る雅楽に興味津々という様子である。
 最初は、宮廷音楽として限られた人々しか耳にすることのなかった雅楽であるが、時代の流れとともにその演奏の場は変化を見せ、今では我々一般人の生活に身近な存在になりつつある。とはいえ、雅楽の響きを耳にした人の中には、特に若い世代においては、自分の国の音楽であるとは気がつかず、異文化の響きだと誤認する人が多いことも事実である。約1200年の歴史を持つ雅楽は、日本を代表する音楽文化であり日本の宝と言っても過言ではない。演奏の場が広がり、演奏回数が増えるのと並行して、それを楽しみ、誇りに思う人たちがこの先増えていくことを願っている。



國枝由莉(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程 鍵盤楽器領域)

クロード・ドビュッシー《ピアノ三重奏曲》:出版譜の校訂をめぐって―自筆譜との比較と検証—

 クロード・ドビュッシーの《ピアノ三重奏曲》は、1880年、ドビュッシーがピアノ科の生徒としてパリ音楽院に在籍していた時、裕福なロシア夫人ナデージダ・フォン・メックに雇われて同伴した夏のヨーロッパ旅行中に作曲された作品である。しかし、ドビュッシーの生前に出版されることはなく、1977年に出版されたドビュッシー唯一の正式な作品カタログにその存在を記載されるものの、未出版で自筆譜の所在も不明という謎に満ちた作品として知られていた。しかし、1979年にパリのオークションで自筆譜の一部が落札されたことをきっかけに、ドビュッシーの没後70年近く経った1986年、ヘンレ社から出版された。
 《ピアノ三重奏曲》の出版譜は、1979年のオークションで落札され、ニューヨークのピアポント・モーガン図書館に所蔵されている第1楽章の自筆総譜及びチェロ・パート全楽章自筆譜と、1982年に出版譜の校訂者である音楽学者エルウッド・デール Ellwood Derr(1932-2008)によってミシガン大学音楽学部で発見され、現在も同大学図書館に所蔵されている残りの第2~4楽章の自筆総譜に基づいて構成されたが、これらの自筆譜にはいくつかの問題があった。ピアポント・モーガン図書館に所蔵されている自筆譜とミシガン大学図書館に所蔵されている自筆譜には相違点が多く、ミシガン大学図書館に所蔵されている自筆総譜には、25小節にわたる欠落部分が存在していたのである。
 この欠落部分の補筆完成によって《ピアノ三重奏曲》は出版に至ったが、この出版譜の序文には、先に述べた問題点を含めた自筆譜の詳細と、出版譜の成立のために校訂者が行ったことについて書かれている。しかし、欠落部分以外について、補筆が必要な箇所は括弧( )を付けて示し、他のパートと一致する箇所の臨時記号は括弧なしで補筆した、という大まかな内容しか書かれていない。さらには、括弧の付いた補筆の多さと校訂報告の少なさも加わり、出版譜の成立過程がはっきりしないまま曖昧な部分が多く存在することになったのである。そこで、本論文では《ピアノ三重奏曲》の出版譜の成立過程を明らかにし、自筆譜と比較することで出版譜における補筆が何を根拠にされたものなのかを検証し、その曖昧な部分を解決することを目的とした。
 論文全体は2章で構成されている。第1章では、《ピアノ三重奏曲》が1986年に出版されるまでの状況をまとめた。第1節では、ドビュッシーの生涯に沿って《ピアノ三重奏曲》の作曲背景をまとめ、第2節では、出版される以前はどのような作品とみなされていたかを、1977年に出版されたドビュッシーの作品カタログを中心に調査し、不確かであった作曲年の認識についても指摘した。第3節では、1986年に出版されるまでの経緯を、出版譜の序文を元に考察してまとめた。
 第2章では、《ピアノ三重奏曲》の出版譜における曖昧な部分の検証を行った。第1節では、自筆譜のそれぞれの特徴を述べ、第2節では校訂報告の内容を検証し、第3節では校訂報告に書かれていない、括弧の付いた補筆が何を根拠にしたものなのかを、自筆譜と出版譜、校訂報告を比較しながら検証した。その結果、出版譜の補筆のほとんどは自筆総譜から補われており、自筆総譜だけでは不十分と思われた箇所のみチェロ・パート自筆譜によって補われ、自筆譜にみられる音価や音高、臨時記号等の適切でない表記を補った箇所も括弧を付けて補筆されていたことが分かった。しかし、中には自筆譜に書かれていない臨時記号を補筆した箇所も存在しており、その部分については校訂者による説明がなされるべきであることも指摘した。
 これらのことから、《ピアノ三重奏曲》の自筆譜には記譜の不確かな箇所が多く存在しているにもかかわらず、校訂報告が詳しく書かれていないために、出版譜でこうした問題が発生していることが分かった。しかし、自筆譜に書かれていない、校訂者の意図とも考えられる補筆箇所についても、自筆譜からの補筆と同等に扱われていたことから、校訂報告の見直しの必要性と、さらなる研究が進められるべき作品であることが明らかとなった。



深堀彩香(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程 音楽学領域)

「Music and Jesuits in Japan and Macau: A Historical Overview from Sixteenth Century to Eighteenth Century
[イエズス会と音楽:16世紀から18世紀の日本とマカオを中心に]」

 日本において「キリシタン時代の音楽」は、一般的な日本の洋楽受容史や音楽教育史とは別に単体で扱われることが多く、特異なものとして扱われる傾向がある。キリシタン時代に日本にもたらされた西洋音楽は、世界規模で布教を行っていたイエズス会の宣教活動に伴うものであった。同時代に日本以外の地域においても同様の音楽活動がイエズス会によって行われていたにもかかわらず、日本で行われているキリシタン時代の音楽の研究は、その焦点が日本に限定されており、日本とその他の宣教地との並行した研究はこれまで行われてこなかった。そこで、本研究は、16世紀から18世紀におけるイエズス会の音楽を世界宣教のためのひとつの手段として捉え、イエズス会の極東布教の重要な拠点であったマカオに着目し、日本との比較を試みた。
 1534年に創立されたイエズス会は、1535年以降、ポルトガルの擁護を受けて世界各地で布教を行っていた。新たな土地へ進出していく際に軍事征服が行われ、ヨーロッパ文化を半強制的に導入する例もあったが、その一方で、武力を伴わず、宣教地の伝統や文化を尊重して宣教活動が行われた例もある。日本とマカオは、武力衝突を伴わず、平和的に宣教活動が進められたという共通点がある。しかしながら、日本では「適応政策」、マカオでは「同化政策」という異なる政策が採られていた。日本で採られていた「適応政策」とは、イエズス会が宣教地の保持する文化様式を尊重し、それを援用して宣教活動を行うという方法である。マカオにおいて行われていた「同化政策」は、宣教師自身が育まれたヨーロッパの文化様式を唯一の理想型とみなし、宣教地の文化をヨーロッパに同化させるという方法である。したがって、マカオではヨーロッパの文化が尊重され、ヨーロッパの様式で宣教活動が行われていた。
 16世紀から18世紀にかけて、マカオは極東貿易の主軸であると同時に、日本や中国へ宣教師を派遣するための前進基地であり、また、日本においてキリシタンが弾圧された時代には多くの宣教師や日本人キリシタンが避難した場所としても機能していた。当時の日本とマカオの宣教活動の政策はそれぞれ異なっていたが、両地域に西洋音楽がもたらされ、それぞれの教育機関において音楽教育が行われたという点では共通しており、マカオは西洋音楽に関する知識の源およびパイプの両方としても重要な役割を果たしていた。本論文では、日本とマカオにおけるイエズス会の宣教活動の政策の違いを考慮した上で、当時のイエズス会が宣教活動で用いた音楽について日本とマカオを中心に考察し、その特徴や傾向を明らかにすることを目的とした。
 まず、日本とマカオにおけるイエズス会の宣教活動に関して、それぞれの当時の状況や宣教活動の政策等について概観した。そして、当時の日本とマカオの関係性や、宣教活動において採られていた政策がそれぞれ異なっていたことが示された。
 次に、日本とマカオに創設されたイエズス会の教育機関で行われていた活動について、特にカリキュラムに組み込まれていた音楽を中心に考察し、当時の日本とマカオにおける音楽教育の詳細とその重要性を明らかにした。そして、両地域におけるカリキュラムの比較を試み、その結果、両地域ともに、当時のヨーロッパで用いられていたカリキュラムを基礎として教育が行われていたことが明らかになった。
 カリキュラムとして行われていた音楽を除く、その他のイエズス会士の音楽活動について、それぞれの地域で行われていた演劇や教会における音楽等について考察した。ここからは、現地で働くイエズス会士達が、それぞれの地域においてそれぞれの文化を取り入れながら宣教活動を行っていたことがわかった。イエズス会士達が現地の要素を取り入れるという例は、とりわけ、演劇において顕著であったが、これは現地の人々の興味を引き、関心を高めさせ、より円滑に宣教活動を行っていくための試みだったのではないかと考えられる。
 以上の考察により、日本では「適応政策」、マカオでは「同化政策」という異なる政策の下に宣教活動が行われていたが、その音楽活動には類似点も多く、日本での活動が決して特異なものではなかったということが示された。その一方で、今日の日本において、この時代の音楽および音楽活動は単独で扱われる傾向が強いが、マカオの場合、当時の聖パウロ学院の音楽活動は、マカオの音楽史においても、非常に重要で価値あるものとみなされており、今日まで続く音楽教育の源として扱われているという非常に興味深い違いも見受けられた。さらに、より効果的に布教を行っていくためには異なる2つの政策の境界線が曖昧なものにならざるを得なかったということも明らかになった。




籾山陽子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程 音楽学)

ディクションの視点によるヘンデル《メサイア》研究―ヘンデルの歌詞付けの正当性—

 G.F.ヘンデル(George Frideric Handel, 1685-1759)の《メサイアMessiah》(1741)の歌詞付けについては、作曲当時から、作曲者がドイツ出身であるがゆえに英語の理解が足りず、歌詞の扱い方が不自然であるとされ、度々修正が加えられている。
 近年になって漸く、ヘンデル研究者のドナルド・バロウズ(Donald Burrows, 1945- )のように、ヘンデルの歌詞付けの方法を肯定する見解も見られるようになった。バロウズは、現在の人々に理解不能なことでも当時は間違いではなかったのだと考え、それを前提として、ヘンデルの表現の意図を解明しようとしている。しかし、なぜヘンデルの方法を肯定できるのかは、解明されていない。
 ヘンデルが移住したころのイギリスの英語に目を移してみると、当時、綴りは現代とほとんど変わらなくなっていたが、発音はまだ現代と異なるものが多かった。そして、英語特有の大きな発音変化は収束しつつあったが、まだ多くの語は発音変化の途上にあり、その変化の様々な段階の発音が同時に存在していて、非常に流動的であった。
 本論文では、このような当時の英語の実態を把握した上で、英語史の研究成果に基づき歌詞テクストの発音の考察をし、複数の発音の可能性があるとされる箇所については、楽譜に書かれた音楽情報、即ち、旋律の音型・リズム・抑揚や音節の音価の割り振り方を基に分析を行い、発音候補の絞り込みを行う、という方法で、ヘンデルの想定したディクションを復元し、ヘンデルの歌詞付けの正当性について実証することを目的とする。
 本論文は4章から構成される。第1章では、ヘンデルの歌詞付けの特異性について、ヘンデルの時代から現代まで、《メサイア》に関わった人々が、どのような点に着目し、どのように理解し対応していたのかを調べ、《メサイア》における歌詞付けへの関心が時代を追ってどのように変化してきたのかを考察した。その扱いのパターンは大きく2分類された。
 まず第1は、作曲当時は認められていたが、後の人々には受け入れがたく感じられるようになった歌詞付けである。これについては、語の音節数や強勢が現在の認識と異なる点と、イタリア歌曲の連声の技法が使われていることの2種類が挙げられる。語の音節数や強勢が現在の認識と異なる点については、作曲当時の英語に従ってヘンデルが歌詞付けをしたが、時が経ち発音が変化したため、後の人々からはヘンデルの英語が間違っているように感じられたものである。社会の担い手が貴族から市民へと移っていく時代で、標準となる言葉の発音や強勢が変化の途上にあったことも一因とみられる。連声の技法については、作曲当時はこの技法の導入が受け入れられていたが、後の時代の人々には、歌い易さが優先され、この技法が受け入れられなくなったと考えられる。
 第2は、ヘンデルの作曲当時から変更が提案されていた歌詞付けで、ヘンデルが提案を受け入れた場合と却下した場合とがある。これには、拍の強弱と単語の関係が合わない点が挙げられる。この場合は発音の変化によるのではなく、ヘンデルが効果的な表現を試行錯誤していたことによると考えられる。後の人々は自筆譜にある最初の案をオリジナル版として採用する傾向があるが、最近では再考後変更して指揮譜に書かれた案を採用する場合も見られる。再考もヘンデルの考えであるので、再考後の楽譜を採用する方がヘンデルの意向に沿っているとも考えられる。
 《メサイア》は、作曲直後から常に人々に演奏されて伝えられてきたことから、時代の流行などに合わせて変更された演奏方法が、繰り返され一般に定着していった。19世紀末に研究者達が原典に立ち返ろうとした時に、その演奏方法との兼ね合いを考えるという段階が必要であったことも、《メサイア》の歌詞付けについて、ヘンデルの意図に沿って考えることを妨げていた要因と考察される。
 第2章では、ヘンデルがイギリスに移住した頃の英語の状況について、主に英語学の側からアプローチをして考察した。まず英語の歴史と発音変化の変遷を概観した。英語は15世紀から17世紀を中心に発音が大きく変化し、18世紀には、まだその変化の途上である語が多く、現在と異なる、変化の様々な段階の形が存在していたことを確認した。発音の変化には、時代的要素、地域的差異の他、当時は貴族から市民へと社会の中心が移りつつある時代であったことに鑑み、階級による発音の差異等も考慮する必要があることを確認した。さらに《メサイア》の歌詞を扱うにあたり、欽定訳聖書の発音を検討し、当時の歌唱における発音に対する考え方も考察した。
 そして、検討した18世紀の英語の発音の状況を踏まえて、《メサイア》全体のディクションを復元するための、発音に関する指針を設定した。
 第3章では、第2章で設定した復元の指針に従い、さらに、英語学の研究から複数の発音の可能性があると考えられる箇所については、旋律の音型・リズム・抑揚や音節の音価の割り振り方などの音楽情報を基に分析を行い、発音候補を絞り込むことにより、《メサイア》のディクションの復元を試行した。そして、特徴的な歌詞付けの部分についての分析により、ヘンデルの発音は、当時の発音の中では概ね古い伝統的・保守的な発音であることが明らかになった。
 次に、ディクションという視点からヴァージョンの相違について検討することにより、英語がネイティヴでない歌手にはヘンデルの想定した英語のディクションに従わせたこと、役柄が定着している歌手にはその役柄のイメージに合わせたディクションを考えて作曲したこと、公演先で選んだキャストにはそのディクションを容認していたこと、などのヘンデルの意図を明らかにした。さらに、ディクションの視点から考察することにより、作曲した時期、演奏した歌手や会場、聴衆の受け取り方について手掛かりが得られることも明らかになった。
 また、英語に関しても、まさにこの時期に発音変化のどの段階にあるのかが分かる語があること、変化の途中の段階の形が存在したこと、などの知見が得られた。
 そして、第1章から第3章まで検討してきた、ヘンデルの想定したディクションという視点から、第1章でまとめたヘンデルの歌詞付けの特異性の問題について再検討することにより、ヘンデルは、《メサイア》作曲時に実在していた英語の発音や強勢に忠実に従って歌詞付けをしていたことが明らかになった。実は、ヘンデルは英語の発音や強勢に関しては、間違っていなかったということが実証されたのである。
 第4章では、作成したディクション復元の指針と照らし合わせて、第3章で分析した手法により、《メサイア》全曲について、そのディクションを復元した。その結果、ヘンデルのディクションは、現代のディクションと異なる箇所が多いことが明らかになり、歌詞付け研究において発音の違いを考慮に入れる必要性が改めて確認された。
 以上のように、ディクションという視点から《メサイア》の歌詞付けを検討することにより、ヘンデルは、言葉について繊細な意識を持ち、宮廷の英語、市民の英語を正しく理解していて、作曲に際して、試行錯誤しながら、発音も含めた言葉の表現の可能性を常に追求していた、ということが明らかになった。ヘンデルは、歌詞付けに当たり、音楽優先、歌詞優先という考え方をしていたのではなく、英語の正しい理解に基づき、歌詞と音楽との相互の働きかけによる効果を狙って作曲していたのだと考えられる。



小林ひかり

アーリング・ダール著『グリーグ――その生涯と音楽』を翻訳して

 発表者は2012年春にグリーグの伝記の訳書を出版した。原書はグリーグの没後100年にあたる2007年にノルウェーで出版されたノルウェー語のものである。著者のダール氏は1991年から2004年までトロルハウゲンのエドヴァルド・グリーグ博物館の館長で、ベルゲン国際フェスティヴァルの監督を務めた経験もあり、ノルウェーの音楽界で重要な役割を担ってきた人物である。
 本書の特徴としてまずあげられるのは、300点余りもの図版を収載していることだ。人物写真や肖像画から自筆の譜面や手紙、グリーグの生活や当時の文化・社会の様子を語る写真まで、数々の貴重な資料を見ることができる。
 そしてこの作曲家の人となりや芸術観を描き出すことに重点が置かれ、多数の手紙が引用されている。発表者がとりわけ興味を引かれたのは、ノルウェーの自然や民俗音楽だけでなく、政治や宗教や文学界の動きにも対するグリーグの態度や考えが手紙で巧みに表現されているということである。グリーグが生きていた時代、ノルウェーは400年以上に渡るデンマークの支配下からすでに独立して独自の憲法を持っていたが、スウェーデンと連合王国の関係にあった。つまり、文化的にはデンマークの影響を強く受け、政治的にはスウェーデンに追従していたわけである。そのような状況の中でグリーグが、ノルウェーの書き言葉をどのように作るべきかという言語論争や、1905年のスウェーデン=ノルウェー連合王国解消をめぐる闘争に、どのような考えを抱いていたのか、またドレフュス事件や宗教に対してはどのような態度であったのかを知ることができる。
 音楽学者の間では、グリーグというと夏のフィヨルドを思い起こさせる爽やかで耳に心地良いメロディーを書く作曲家、あるいは、19世紀のロシアや旧東欧における民族主義の作曲家に比べると幾分穏やかで保守的な作曲家とイメージされることが多いのではないだろうか。しかし本書でダール氏は、グリーグが常に世のあらゆる問題に関心を抱き、常に近代性(モダニティ)を求める芸術家であったことを強調する。
 ダール氏は本書のタイトルに最初は「私のグリーグ」を考えていたというだけに、主観的に書かれていて、全体を通して著者のグリーグへの愛情と共感の気持ちが伝わってくる。専門書でないものが目指されている点も特徴で、専門用語はなるべく避け、平易な言葉を用いながら、親しみやすい語り口で書かれている。
 本書ではグリーグの生涯の様々な面が紹介される一方で、グリーグの全作品は網羅されておらず、取り上げられている個々の作品の細部に踏み込んだ分析もされていない。とはいうものの、これまでの日本語の出版物では紹介されてこなかった資料や情報が豊富に提示されており、この意味では専門家にとっても満足できるであろうし、愛好家にとっては間違いなく魅力的な一冊になると思う。