第104回例会報告

日本音楽学会中部支部 

日時:2012年(平成24年)3月18日(日)13:30〜16:30
名古屋芸術大学 音楽学部(東キャンパス)5号館301教室


【卒業論文の発表】 司会:金子敦子(名古屋芸術大学)

1  伊藤 円(愛知県立芸術大学):レベッカ・クラーク研究―その生涯とヴィオラソナタを中心に―
2  岡田 恵里子(名古屋芸術大学):NHKテレビ番組「NHKみんなのうた」と音楽教育との関わり
3  槇原 彩(愛知県立芸術大学):“作曲家”宮沢賢治の誕生

【修士論文の発表】

七条 めぐみ(愛知県立芸術大学大学院博士前期課程):ゲオルグ・ムッファトの《音楽の花束》に見られる様式の混合



【卒業論文の発表】 司会:金子敦子(名古屋芸術大学)

1 伊藤 円(愛知県立芸術大学)

レベッカ・クラーク研究―その生涯とヴィオラソナタを中心に―

 今回の卒業論文では、レベッカ・クラークRebecca Clarke(1886-1979)という人物に焦点をあて、その生涯と彼女の代表作であるヴィオラソナタを中心として発表を行った。クラークは、20世紀初頭からイギリスとアメリカを中心に活躍したヴィオラ奏者であり、女性作曲家である。彼女は、代表作を含む作品の多くを1910年代から1930年代にかけて作曲したが、ほとんどの作品を出版せず、最後の作品を書いた1950年代以降には音楽家として忘れられた存在となった。クラークの生涯に関する資料としては、2000年に設立されたレベッカ・クラーク協会が発行している文献を中心としていくつか存在するものの、とりわけ日本語で書かれた文献は全くないというのが現状である。そのため、クラークに関する研究を進めるにあたり、まず彼女について得られる現在入手可能な情報を収集し、生涯を伝記としてまとめることを第1の目的とした。その上で創作活動の全盛期であった1919年に作曲されたヴィオラソナタにも注目し、彼女の作品の特徴を探ることとした。
 今回の論文発表においては、クラークの生涯に関する事柄から彼女が「女性音楽家として残した功績」についてと、作品に関する事柄から「ヴィオラソナタの特徴」についての2点を中心として述べた。
 演奏家としてのクラークが残した功績には、プロのオーケストラにおける最初の常勤の女性奏者の1人に選出されたことや、女性演奏者だけによる室内楽アンサンブルを結成し、世界各地で演奏旅行に出かけたことがあげられる。作曲家としては、チャールズ・スタンフォード(1852-1924)に師事した最初の女生徒であり、エリザベス・クーリッジ(1864-1953)がパトロンとして音楽活動を支援した唯一の女性作曲家でもあった。
 クラークの音楽的な最盛期は20代半ばから30代にかけての短い期間であるが、彼女は93年の生涯で声楽作品を70曲、ヴィオラの作品を中心とした室内楽作品を30曲ほど残している。女性作曲家として否定的に評価されることを避けるため、男性の偽名を用いて作品を発表していた時期もあったが、アメリカのバークシャー音楽祭で行われた応募者匿名の国際作曲コンクールに提出したヴィオラソナタにより、作曲家として注目されることとなった。しかしながらこの作品の発表当時は、彼女が女性作曲家であることに言及し、「女性らしくない」という評価も受け、それは先行研究においてもクラークに関する話題の中心として扱われている。それ故に、彼女の作品そのものに関する楽曲分析は未だほとんど行われていないのが現状なのである。
 今回の研究におけるヴィオラソナタの分析を通し、彼女の作品の特徴として、主題動機の頻繁な反復と変形、三全音の多用、また、これらを楽章間で度々用いることで作品全体に統一感をもたらしているということが明らかになった。そして、クラークの作品が“女性作曲家の作品”という枠組みの中だけで評価されるのではなく、音楽史の中で、同時代のイギリスやフランスの作曲家たちの流れを組む作曲家であると提唱できるのではないかと考えている。


2 岡田 恵里子(名古屋芸術大学)

NHKテレビ番組「NHKみんなのうた」と音楽教育との関わり

 「NHKみんなのうた」は、「子どもを中心に家族そろって楽しめるオリジナル曲の開発を目的とするミニ番組」として昭和36年(1961)にNHK総合テレビで開始され、50年経った現在(平成23年)でも放送され続けている長寿番組である。放送開始当初と比較すると社会は大きく変化し、それとともに放送される音楽内容も大きく変わってきた。なお、「NHKみんなのうた」の放送曲の中には、学校教育の中で取り上げられている楽曲も数多い。番組で紹介された曲は、学校教育にどのようにかかわってきたのだろうか。本研究では、「NHKみんなのうた」と学校教育、特に小学校の音楽教育との関係に注目して考察を進める。
 「NHKみんなのうた」の開始から平成23年(2011)4月までの50年間に、1254曲が放送されてきた。放送された曲目の内容を分析すると、以下の5つに分けられる。①外国民謡(黒人霊歌を含む)(105曲) ②日本民謡と文部省唱歌(13曲) ③オリジナル曲(906曲) ④童謡及び古くから歌われてきた歌(155曲) ⑤不明(75曲)。それぞれについては、次のように言える。「①外国民謡(黒人霊歌を含む)」、「②日本民謡と文部唱歌」、「④童謡及び古くから歌われてきた歌」については、昭和36年(1961)の放送開始から昭和43年(1968)までの7年間に集中して放送され、昭和55年(1980)を最後に画面から姿を消す。一方、昭和44年(1969)には、「お国めぐりシリーズ」という新たなジャンルが登場する。第1作は《札幌の空》であり、この曲は「③オリジナル曲」1号と考えられよう。その後、昭和55年(1980)以降、番組で放送される楽曲はオリジナル曲のみとなる。つまり、既存曲が減少傾向を示す一方、オリジナル曲の数が増加傾向に向うのである。
 本番組で放送された楽曲と小学校教育との関係を調べるために、筆者は、昭和36年から平成23年の50年間に、教育出版株式会社より発行された小学校音楽教科書全90冊を対象にして掲載曲目を考察した。全90冊の教科書には、本番組の楽曲は延べ424回掲載されているが、その内重複曲を除くと全101曲となる。この101曲の内容について見てみると、「お国めぐりシリーズ」《札幌の空》を除き、外国民謡、日本の童謡、そして文部省唱歌であり、それらはすべて昭和54年(1979)までの18年間に放送された曲であった。つまり、昭和55年(1980)以降に番組で放送されたオリジナル曲は、教科書には1曲も見当たらないという結果になった。
 昭和55年とは、どういう年なのだろうか。昭和45年(1970)年、つまり大阪万博の頃から、番組には「オリジナル曲」が登場し、“古い”曲が聞かれなくなってきたことはすでに述べた。その後10年経った昭和55年には、社会はいわゆるアイドル歌手の黄金時代へと移り変わってゆく。業界では、次々とデビューするアイドルたちに曲を与えるべく多くの作詞者や作曲者が登場し、その影響もあってか、本番組でも“新しい”作詞家や作曲家による「オリジナル曲」が増加し、最終的には“新しい曲”だけの放送へと向う。この時代から、世の中では「求められる」音楽も変わり、曲の内容も一人一人、個人に訴えるような歌詞が目立つようになってくる。個人に訴えかける曲は、学校教育のような公の場には適さないという考えからか、「NHKみんなのうた」で放送される曲は、教科書には掲載されなくなった。世の中では各自がそれぞれに共感できる曲を見つけることに集中し、みんなで楽しめる歌は徐々にその数を減らしつつある。
 社会では、次々と新曲が発表される。新しい曲の誕生、新しい曲との出会いは新鮮で楽しい。しかし、古くから親しまれてきた曲を将来に残すことも重要ではないだろうか。学習指導要領には「伝統音楽の重要性」がうたわれているが、伝統音楽のみならず、今までに伝承されてきたさまざまな音楽、たとえば外国民謡、日本の童謡や文部省唱歌等を今後も学校教育の中で歌い続けていくと同時に、年齢を問わず「みんなで口ずさめる」新曲の出現にも期待したい。


3 槇原 彩(愛知県立芸術大学)

“作曲家”宮沢賢治の誕生

 宮沢賢治(1896—1933)は、現在の岩手県花巻市に生まれた詩人、童話作家、教諭である。今日一般的には詩人、童話作家として知られているが、彼は1921年(大正10年)から5年間、花巻農学校の教諭を務め、また教諭を辞めてからは羅須地人協会を設立し、農民に農業指導を行っている。さらに、教諭時代から音楽に関心を示し始め、レコードの収集やレコードコンサートの開催、歌曲の制作、または既存の管弦楽曲などに自作の歌詞をつける、いわゆる替え歌の制作などの活動を行っていた。そして、それらの歌曲は彼の全集に歌曲の項として収められている。
 本論文では、なぜ彼の全集に歌曲の項が存在するのかという疑問から、宮沢賢治が作曲した歌曲とはどのようなものなのかをまとめ、今まで出版された各全集の特徴、『新校本宮沢賢治全集』の歌曲の項までの、全集ごとの歌曲数の変化、どのようにして歌曲が増加していったのかを彼の教え子や教諭仲間、近親者の証言から明らかにした。さらに“音楽に造詣が深かった作家”という宮沢賢治に対する印象は、どのように形成されたのかを、彼の花巻農学校教諭時代の教え子、友人、近親者などの証言から読み解いた。
 本論文は全3章から成り、第1章では、彼自身の音楽的体験や活動をまとめた。幼少期から学生時代、花巻農学校教諭時代、羅須地人協会結成以降の3つの時期に分けて述べている。第2章においては、全集ごとの歌曲数の変化を調査した結果をまとめることによって、歌曲が増加していった過程を明らかにし、最終章では、宮沢賢治には音楽的な才能があったのかを、彼の近親者や花巻農学校教諭時代の教え子などの証言から明らかにしている。
 その結果、彼の音楽的な活動はほぼ花巻農学校教諭時代に集中していること、彼の歌曲の楽譜は、全集が発行される度に増加していることが明らかになった。
 そして宮沢賢治の歌曲は、彼自身が音符を書き起こしたものではなく、彼の近親者や花巻農学校教諭時代の教え子などが、彼が歌っていた旋律を歌い継ぎ、教諭仲間であった藤原嘉藤治などが楽譜に書き起こしたものであることが判明した。彼の歌曲は、彼自身ではなく、彼の近親者などによって残されたといってよい。このような特殊な残され方をしている点が、宮沢賢治の歌曲の大きな特徴である。
 さらに宮沢賢治の音楽的な能力についての証言をまとめたことで、彼の歌唱力に関しての記述はほとんどが肯定的なものであることが分かった。しかしながら、楽器の演奏に関しての証言には否定的なものが多く、宮沢賢治自身には特出した音楽的な能力はなかったのではないかということが判明した。 現在の“音楽に造詣が深かった作家”という宮沢賢治に対する印象は、レコードコンサートや劇の上演、楽団の組織などの彼の活動に関しての証言、そして彼の楽器演奏などに関する彼自身の証言や彼の近親者や教え子などの肯定的な証言の影響を受け、創り上げられていったことが本研究を通して明らかになった。


【修士論文の発表】

七条 めぐみ(愛知県立芸術大学大学院博士前期課程)

ゲオルグ・ムッファトの《音楽の花束》に見られる様式の混合

 本論文は、ゲオルク・ムッファトGeorg Muffat(1653-1704)の管弦楽組曲集《音楽の花束 第1集》(1695年)および《音楽の花束 第2集》(1698年)を、ドイツ・バロック音楽における混合様式の先駆的な曲集として捉え直すことを目的とした。 ムッファトは、現フランス南東部のサヴォアに生まれ、パリとローマで音楽を学び、ザルツブルクとパッサウの宮廷で活動するなど、汎ヨーロッパ的な経歴をもつ作曲家である。彼の《音楽の花束》は、17世紀フランスの宮廷音楽を確立したリュリJean Baptiste Lully(1632-1687)のバレエ音楽の様式を、ドイツ語圏へ伝えた曲集として見なされてきた。この曲集には楽曲のほかに長大な「序文」が付けられており、それが曲集全体の中で多大な存在感を示している。「序文」は、ムッファトの目指す音楽様式や、曲集の成立背景、作品の演奏方法などに関することが詳細に書かれているとともに、アンサンブルのパートに応じて、ラテン語、ドイツ語、イタリア語、フランス語のうちそれぞれ異なる言語で書かれている。このような特殊性のために、《音楽の花束》の「序文」は早くも18世紀から注目されるようになり、曲集そのものも、1700年前後にドイツで作曲された管弦楽組曲の中では随一の知名度を誇るものとなっている。しかしながら、これまでの《音楽の花束》に関する研究では、「序文」と楽曲があわせて注目されることはなく、もっぱらバレエ音楽の伝道という側面のみ評価されてきた。そこで本論文では、《音楽の花束》を「序文」と楽曲、そして曲集の成立に関わるさまざまな要因から分析することで、この曲集を総合的に評価し、フランスのバレエ音楽を伝えたという従来の評価を再考した。
 論文全体は3章から構成される。第1章では、《音楽の花束》をめぐる様々な背景を扱った。第1節ではムッファトの生涯と作品について概観するとともに、パッサウの文化的風土について触れ、ムッファトの国際的な経歴とパッサウにおけるバレエの上演が、《音楽の花束》の成立に大きく寄与する要素であることを述べた。第2節では、17世紀後半から18世紀初頭にかけてドイツで作曲された管弦楽組曲の流れを追い、《音楽の花束》が、南ドイツ地域におけるフランス風の組曲の隆盛に則って表れた曲集であることを指摘した。
 第2章では、《音楽の花束》の「序文」を詳細に分析した。第1節では「序文」を扱う先行研究を概観するとともに、2001年のウィルソンの研究を取り上げ、4ヶ国語による「序文」の言語間の差異に十分に注意が払われていないことを指摘した。第2節、第3節では、《第1集》と《第2集》の「序文」を取り上げ、楽曲の様式と曲集成立の背景の観点から、「序文」におけるムッファトの意図を読み取った。その結果、《音楽の花束》の「序文」には、従来言われていたようなバレエ音楽を紹介する内容だけでなく、フランス、イタリア、ドイツの音楽様式を混合する、あるいはリュリの様式とドイツ人の様式を混合するという内容も含まれていることが分かった。
 第3章では、《音楽の花束》の楽曲を分析した。第1節では、ムッファトの管弦楽作品を包括的に扱った1984年のシュタンプフルの研究を取り上げ、《音楽の花束》がバレエ音楽の取り入れという側面でのみ評価されていることを指摘した。第2節では、《音楽の花束》の組曲の構成を、リュリのバレエ音楽、ドイツの同時代の管弦楽組曲、そしてイタリアの室内ソナタと比較した。第3節では、《音楽の花束》に含まれる序曲、表題曲、バレエの書法をそれぞれ分析した。分析の結果、《音楽の花束》の楽曲では、リュリの書法が大方踏襲されているものの、声部の扱いや和声進行などにリュリとは異なる特徴が見られた。例えば序曲においては、その構造はリュリの序曲と非常によく似ているが、細かい書法に関しては、対位法的な声部の扱いや、半音階を伴う和声進行など、ムッファト独自の特徴が見られた。このような特徴から、「序文」だけでなく楽曲においても、さまざまな様式を混合するという傾向が見られることが分かった。そして、このようなムッファトの書法をドイツ・バロック音楽全体の中でとらえると、《音楽の花束》は18世紀のバッハやテレマンに代表されるようないわゆる「混合様式」の先駆的な曲集として位置付けることができるのではないかと考えられる。
 《音楽の花束》が出版された1700年前後には、とりわけ南ドイツ地域において多くのフランス風管弦楽組曲が書かれた。しかし、このような管弦楽組曲の大半がいまだ存在を知られていないだけでなく、リュリのバレエ音楽の模倣以上のものとしては評価されていない。本論文では、管弦楽組曲全体をフランス音楽の受容と混合様式の成立という幅広い視野で捉える必要性が浮き彫りとなった。