第98回例会報告

日本音楽学会中部支部 

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日時:2010年3月22日(土)13:30〜17:00
会場:名古屋市立大学芸術工学部 図書館棟 大講義室


【第1部:卒業論文】 司会:水野みか子

1  ムツィオ・クレメンティ研究—練習曲集《グラドゥス・アド・パルナッスム》をめぐって—:児玉直子(愛知県立芸術大学音楽学部音楽学コース)
2  音楽情報のヴィジュアライゼーション—効果的声部進行のための計算法及び表示法—:呂ひろし(名古屋市立大学芸術工学部デザイン情報学科)


【第2部:修士論文】 

3  ピアノ・リダクションの演奏法—W. A. モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》とG. プッチーニのオペラ《ラ・ボエーム》を中心に—: 桃井佑子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程)
4  ロック・バンド〈レディオヘッド〉にペンデレツキが与えた影響:服部靖子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程)
5  中世・ルネサンス期のイギリス世俗声楽曲のディクションの分析—音楽構造と英語史の両面からのアプローチによる—:籾山陽子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程)


【第3部:特別報告】 

6  地域全体を視野に入れたアウトリーチの在り方について−小学校音楽科での実践を通して−:梶田美香(名古屋市立大学大学院人間文化研究科博士後期課程)


【第1部:卒業論文】 司会:水野みか子

1 児玉直子(愛知県立芸術大学音楽学部音楽学コース)

ムツィオ・クレメンティ研究—練習曲集《グラドゥス・アド・パルナッスム》をめぐって—

 本論文では、主にソナチネの作曲者として知られているムツィオ・クレメンティMuzio Clementi(1752-1832)を取り上げた。クレメンティの集大成として出版された練習曲集≪グラドゥス・アド・パルナッスムGradus ad Parnassum≫Op.44(以下「グラドゥス」)には、彼の音楽家としてのあり方が反映されている。退屈で機械的な練習曲集であるという一般の認識とは裏腹に、≪グラドゥス≫が多くの要素を持った練習曲集であることを論証した。
 第1章では、クレメンティの生涯と当時の鍵盤楽器の発達に目を向け、彼の作品を考察した。続いて第2章では、タウジヒ版の≪グラドゥス≫を、練習曲集の受容の高まりという背景から検証した。第3章では、≪グラドゥス≫に「組曲」による括りが存在することに着目し、2人の研究者の分類の考察と、楽曲分析によって新たなクレメンティ像を見出した。


2 呂ひろし(名古屋市立大学芸術工学部デザイン情報学科)

音楽情報のヴィジュアライゼーション—効果的声部進行のための計算法及び表示法—

〔研究目的および背景〕
 本研究の目的は以下の二点である。第一に、音の集合やその進行の情報の構造を視覚的に表したヴィジュアライゼーションであるピッチ・クラス・サークル (PCC) の表示法を提案する。 第二に、 PCC の視覚的構造に基づいた、和音間の効果的声部進行の計算法の定義を行う。
 本研究におけるヴィジュアライゼーションについて、以下のようにまとめることができる。
・音の集合とその進行についての音楽情報を記述するための言語体系
・音楽理論に基づき、楽譜と互換性がある
・♯や♭などの臨時記号は使用せず、すべての半音が固有のポジションを持つ
 本研究の先行研究として、アラン・フォート (Allen Forte) のピッチ・クラス (pc) 集合理論およびドミトリー(Dmitri Tymoczko)の効果的声部進行に関する研究があげられる。
 また、本研究では主に以下の論文を基盤に理論を打ち立てていく。
 Dmitri Tymoczko
 ‘Scale Theory, Serial Theory and Voice Leading’
 Music Analysis, 27/i (2008)
 この研究ではドミトリーの定義に従い、和音を音またはピッチ・クラスの複層集合とする。大括弧 {} によって囲まれた要素は、順番が関係ないことを示し、小括弧 () では順番が重要なことを意味する。中括弧 [] に囲まれた音は対応する進行間ではそれぞれの音を使った場合分けが必要であると意味する。
 声部進行を音高ではなくピッチ・クラス声部進行としてとらえると、Ex. 1a と b は (F, D, B, G, G) → -1 , -2, 1, 0, 5 → (E, C, C, G, C) と表すことになる。ただし、 c の低音の進行は異なるので、これに当てはまらない。
 Ex. 1
 ドミトリーの計算理論では声部進行を全単射的と非全単射的の二通りに分けて考える。全単射的とは、進行のはじめの和音内のすべての音が、進行の目的の和音内のすべての音のどれか一つだけに移動する場合である。一方非全単射的な進行とは、和音間の進行する音が自由に重複する場合である。場合によっては、進行の数を増やすことで進行の距離を減らすことがある。 〔PCC による表示法〕
 PCC では Ex. 2 のように時計の文字盤のそれぞれの時間の場所を、時間の数字と同じ値を持つピッチ・クラスのポジションとする。つまり、零時は C (0) のポジションであり、六時は F# (6) のポジションである。
 Ex. 2
 PCC に和音を書き入れるときは黒塗りの丸(●)を和音の音のポジションに配置し、和音間を直線でつなげる。二つの和音を同時に書くときは、目的となる和音の音のポジションに白抜きの四角(□)を使う。 (C, E, G) と (C, F, A) の二つの和音を PCC に書き入れた。
 PCC で二つの和音間の進行を書き入れるときは、二つの和音間の対応している音同士を矢印を使ってつなげる。 PCC に (C, E, G) → (C, F, A) の進行の軌跡を書き入れた。
全単射的な進行と非全単射的な進行の違いによって、各音の持つ最短な進行の軌跡を書き入れる順番や、最短としての軌跡を選ぶ条件が異なる。この論文によって提案される条件に従って最短の進行を書き入れると、{C, B#, F#, A#} → {D, F, G#, A#} の進行のようになる。
 全単射的声部進行は二通りであるため、その軌跡は省略した。一方、非全単射的声部進行は場合分けが必要であり、確定された軌跡は実践の矢印、場合分けの必要な進行は点線によって表した。以上の PCC からは全単射的進行として (C, B#, F#, A#) → (D, F, G#, A#) と (C, A#, F#, B#) → (A#, G#, F, D) の二通りを読み取ることができ、また非全単射的進行として (C, B#, F#, [F#, A#], A#) → ([D, A#], D, F, G#, A#) を読み取ることができる。これは C のトリスタン和音と A# の属七の和音との間の効果的声部進行のすべての可能性である。
〔結論〕本研究の結論は以下の二つである。まず、PCC は音楽理論の深い理解の不必要な記述方法である。また、PCC による効果的声部進行の計算法は従来よりも効率的な部分がある。


【第2部:修士論文】

3 桃井佑子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程)

ピアノ・リダクションの演奏法—W. A. モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》とG. プッチーニのオペラ《ラ・ボエーム》を中心に—

 リダクションとは編曲の一種で、大規模な編成のものを、なるべく原曲の原形をそこなわないように小編成に編曲したものを指す。その中でも、オペラやコンチェルトなどのオーケストラ・スコアをピアノ用に編曲したものを、ピアノ・リダクションという。このピアノ・リダクションを演奏する機会は少なくなく、コンサートなどでオペラ・アリアやコンチェルトの伴奏をする場合や、コレペティトゥールという歌劇場などでオペラ歌手やバレエダンサーに音楽稽古をつけるピアニストを務める場合などがある。
しかし、これらのような演奏機会があるにも関わらず、ピアノ・リダクションの演奏法の指針となるような先行研究は特になく、それぞれのピアニストがその効果的な演奏方法を模索しなければならない。本研究は、このピアノ・リダクションを演奏する際、できるだけ原曲のオーケストラの音響効果に近づけるための効果的な演奏法について考察したものである。
 第1章「オーケストラの楽器とピアノについて」では、ピアノ・リダクションを演奏する際に必要な基礎知識として、オーケストラの主要な楽器の音色の特性について述べ、それらの音色をピアノで模倣するための手段に関することをまとめた。続く第2章「オペラのピアノ・リダクションの演奏法」では、第1章の実践例として、オーケストラの編成の規模が異なる二つのオペラを取り上げ、それぞれの効果的な演奏方法について考察した。
 本発表では、第2章で考察したW.A.モーツァルトの《フィガロの結婚》とG.プッチーニの《ラ・ボエーム》それぞれのオペラを比較しながら、その効果的な演奏法について具体的に説明した。
その結果、まずオーケストラが2管編成の小規模な編成である《フィガロの結婚》と3管編成以上の大規模な編成である《ラ・ボエーム》では、目指す演奏効果が違うことがわかった。どちらの作品も弦楽器主体のオーケストレーションであることが特徴だが、管楽器群の編成に合わせて弦楽器群の人数も増減するため、弦楽器群の規模の大きさの違いが、オーケストラ全体の音響効果を想像する上で良い手がかりとなるだろう。ピアノ・リダクションを演奏する際は、その規模から想定できるオーケストラの音響効果を念頭に置いて演奏することが重要である。例えば、モーツァルトよりもプッチーニのほうが楽器の種類が豊富になる分、より細かい弾き分けが必要であり、また編成も大きいため大規模な演奏効果が要求されることなどが考えられる。
 また、ピアノ・リダクションを演奏するにあたって、総じて次のようなことが言える。まず演奏の際にすべきことは、ヴォーカル・スコアとオーケストラ・スコアの二つのスコアをよく見比べることである。ヴォーカル・スコアでは同じように見える記譜も、オーケストラではさまざまな楽器で演奏されており演奏効果が異なるからである。かつての偉大な伴奏ピアニストであるC.V.ボスは「もっと良い効果が得られると思ったら伴奏者は遠慮なく再編曲して良い」と述べているが、ピアノ・リダクションを演奏するということは、楽譜の一つ一つの音を正確に弾くことに意味があるのではなく、オーケストラにできるだけ近い色彩感を出すことが目的であるのだから、このほうが弾きやすく効果的であると自らが考えるのであれば、進んで「再編曲」して良いのである。この必ずしも楽譜の音を忠実に演奏する必要はないということは、独奏曲や室内楽作品に取り組む際と、最も違う点であると言えるだろう。
 そして、オーケストラの音響効果をピアノに置き換えるにあたり、音の明確なイメージを持つことも非常に重要である。演奏会で実際にオーケストラの音を体感することや、CDなどの音源から音のイメージを掴むなどの方法が考えられるが、その想像力をタッチやペダルなどのピアノのテクニックにうまく結びつけることができれば、ピアノという一つの楽器から色彩感豊かな演奏効果を得ることができるだろう。演奏効果に関しては、その状況において無限の可能性があり、曲数を経験しいろいろな奏法を研究することが重要なのではないだろうか。
 そのようにしてさまざまなオーケストレーションを理解し、ピアノ・リダクションを演奏することを通してオーケストラの演奏効果の模倣を経験することで、ピアノ独奏などにおいても、さまざまな音色が感じられる色彩感豊かなピアノ演奏を目指すことができる。また、他の楽器と室内楽作品に取り組む際にも、その楽器の特性を知っていることで、よりバランスの取れたアンサンブルをすることができるだろう。したがって、本論文での研究は、他のピアノ・レパートリーの解釈、演奏に際しても役立てることができると考える。


4 服部靖子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程)

ロック・バンド〈レディオヘッド〉にペンデレツキが与えた影響

 イギリスのオルタナティブ・ロックバンドである「レディオヘッド Radiohead」は、1992年のメジャーデビュー以降、オルタナティブ・ロックというジャンルにとどまることなくさまざまな分野で世界的に活躍している。彼らは各音楽誌で、ポーランドの作曲家クシシュトフ・ペンデレツキ Krzysztof Penderecki (1933- ) から影響を受けたと公言している。1960年代、現代音楽とロック・ミュージックはビートルズ The Beatlesらによって密接なかかわりを持っていたが、それが現代、レディオヘッドによって再び試みられている。本論では、彼らが自分たちのジャンル外であるクラシック・現代音楽をいかに消化し、還元していったのかを考察する。
 第1章「ロック・ミュージックにおけるレディオヘッド」では、レディオヘッドの誕生とデビュー、そしてロック・ミュージックの歴史について考察した。ロック・ミュージックの歴史については、特にロック・ミュージックと現代音楽のかかわり方に重点をおいた。第2章「広島の犠牲者に捧げる哀歌」では、ペンデレツキの≪広島の犠牲者に捧げる哀歌≫の中からレディオヘッドが彼らの作品に生かしたと思われる部分を抜粋して分析した。第3章「レディオヘッドの作品に見られるペンデレツキの特性」では、第2章における分析結果とレディオヘッドの作品を比較し影響の受け方を考察した。この際、レディオヘッドの作品の中から、ペンデレツキから特に影響を受けているであろうと思われる作品、〈How to Disappear Completely〉と〈Weird Fishes/Arpeggi〉を選んだ。
 レディオヘッドは、現代音楽の要素を単純にロック・ミュージックに当てはめたのではなく、その要素を彼ら自身で消化し、構築しなおすことで新しい音楽を生み出すことに成功している。特に1997年に発売されたアルバム≪OK Computer≫以降は、実験的なサウンドを求めた作品を多く制作している。2000年に発売されたアルバム≪Kid A≫に収録されている1曲目の〈How to Disappear Completely〉では、トーン・クラスターという要素を用い、ストリングスだけでなくヴォーカルもそのトーン・クラスターを構成する楽器の一部としてしまっている。それによって、ロック・ミュージックと現代音楽を一作品の中に違和感なく混在させた。作品の終盤では、ギターやドラムといったロック・ミュージックのサウンドがダイナミクスを落とし、トーン・クラスターが全面に押し出された、まさに≪広島の犠牲者に捧げる哀歌≫の一部分であるかのようなサウンドを聴くことができる。2007年発売の≪In Rainbows≫に収録されている2曲目の〈Weird Fishes/Arpeggi〉では、≪広島の犠牲者に捧げる哀歌≫の第2セクションに現れる、「3つのオーケストラにカノンを演奏させる」というシステムを使用し、それを3本のギターに置き換え、ロック・ミュージックに反映させている。その中で、彼らは単純なリズムのセクションに少し工夫を施すことで複雑なリズムを生み出している。3本のギターのアタックをずらし、さらに、ドラムによる8ビートの地盤の上で、ギターに異なるカウントをとらせるというシンプルなものであるが、これはアカデミックな技術を持っていなくても、新しいリズムや音楽を生み出すことが可能であることを現しているようである。
 ペンデレツキから影響を受けた彼らの音楽は、ペンデレツキを知らない別のアーティストに影響を及ぼすことになり、音楽は混ざり合いながら新たな音楽を次々と世界に送り出していく。音楽を制作する際に、受けてきた影響というものは如実に表れるが、レディオヘッドにとってはペンデレツキがその一端で会った。しかしそれは模倣ではなく、確実に彼らの内側から生み出されたものなのである。1960年半ばに現代音楽とロック・ミュージックが互いに影響を与え合い、非常に近しい関係を築き上げていたように、再び現代にも同じように、ロック・ミュージックが現代音楽を取り入れようと歩み寄っている。ロック・ミュージックというフィルターを通して見た現代音楽の新たな観点は、回りまわって現代音楽に新鮮な影響を及ぼすことになる。
 結論として、ペンデレツキがレディオヘッドに与えた影響を考察することで、現代音楽の新たな観点を見出し、より自由な作品制作の可能性が広がった。


5 籾山陽子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程)

中世・ルネサンス期のイギリス世俗声楽曲のディクションの分析—音楽構造と英語史の両面からのアプローチによる—

 中世・ルネサンス期のイギリスの声楽曲を演奏する場合、同じ時期の大陸の音楽とは異なり、ディクション(歌唱における歌詞の発音法)において困難な問題に直面する。というのは、英語の発達において、ちょうどこの時期に発音の大きな変化が起こっていたからである。
 英語史において、中世・ルネサンス期は、中英語という現代とは違う語形が使われていた段階から、初期近代英語という現代と同じ語形が使われるようになる段階への移行期である。さらに、その初期近代英語の時期は、一般の言語変化に加えて大母音推移と呼ばれる発音変化が進行中で、それぞれの単語につき複数の発音が同時に存在していたと考えられている。それに加えて、印刷技術が発達して綴り字が固定され、英語の綴り字と発音の乖離が起こったため、当時の発音を特定することは困難な作業となっている。
 ところが、演奏の現場にはこの問題が正しく伝えられていないようだ。この時期のイギリスの声楽曲のディクションは、その道の先達による口頭伝承により受け継がれる場合が多いが、これについては、いくつか問題点がある。
 まず、口頭伝承では個人的な経験のみの伝達に陥る危険性が高いこと。また、録音資料は、古楽の演奏家によるものでも、ネイティヴの英語話者が聴いて意味が分かるように現代風の発音で演奏しているものが多く、当時のディクションを反映していない可能性があること。そして、英語学の専門家に指導を仰ぐと、歌詞を朗読する時の発音を提示される場合がほとんどで、歌唱の場合にそのまま適用するには問題があること、などである。
以上の問題点を解決するため、声楽曲のディクションについては、歌詞の音声も含めて音楽の演奏であることを重視し、英語史からの考察に加えて、音楽面からのアプローチ、すなわち音楽構造や歌詞と音楽との関係についての考察を加えることが必要だと考える。
本論文では、このような考えに基づき、英語の発達、歌詞の韻律、押韻に加えて、音楽構造、歌詞と音楽との関係なども考慮することにより、より精度の高い分析(ディクションの試案を検討し提示すること)を実現した。
第1章では、中世・ルネサンス期のイギリス音楽の特徴や歴史、歌詞と音楽との関係について考察した。第1節ではこの時期のイギリス音楽の発展について概観した。第2節ではこの時期のイギリス詩の韻律と、歌詞と音楽の関係について述べた。 第2章では、英語の発達と発音の変化について考察した。第1節で英語の歴史について概観し、英国における英語の地位の変化について述べた。第2節では中世・ルネサンス期の英語の発音の変化について述べた。 第3章では、第1章、第2章で概観した音楽の発展や英語の発達・変化を踏まえて、実際にディクションの分析を試行した。第1節で先行研究について考察し問題点を洗い出し、それを考慮して、第2節で実例に当たりディクションの分析を試みた。扱う対象をロンドンの宮廷に関係する世俗音楽と限定した上で、15世紀前半から1470年頃までを第1期、1470年頃から16世紀中頃までを第2期、16世紀後半から17世紀初頭までを第3期と区分し、各時期の特徴がよく表れている音楽を1曲ずつ抽出し、それぞれの曲の音楽構造、歌詞の韻律等を検討して、ディクションの分析を試行した。
 今回の発表では、まず、第1章と第2章から、英国史、英語史、イギリス音楽史の流れを整理して、本論文で扱う時代区分を表で示した。また、英語の発音の変遷表の一部を紹介し、扱い方を解説した。
 次に、第3章から、第3期の対位法や音画法が駆使されているマドリガル〈ヴェスタはラトモス山をかけ下りつつ〉(ウィールクス作曲)について、歌詞を示し、譜例と照らし合わせながら、実際の分析例を紹介した。単語に与えられている音型がどのパートも同じ形、同じリズムパターンであることから固有のディクションを設定した例、単語内の音節の音価の割り振りから二重母音か単母音かを選択した例等を挙げて、かなり進行した大母音推移による複数の発音の可能性を考慮し、旋律の音型・リズム・抑揚や音節の音価の割り振り方と、脚韻・韻律関係を基に分析を行い、多くのケースで英語史からの考察では複数の可能性があるものを絞り込むことができたことを解説した。
 以上の結論として、中世・ルネサンス期のイギリス世俗声楽曲について、英語の発達、歌詞の韻律、押韻に加えて、音楽構造、歌詞と音楽との関係なども考慮することにより、より精度の高いディクション分析を実現した。さらに、音楽的分析により、英語史からの考察では複数の可能性があるディクション案を絞り込めることが実証できた。実際の演奏に際して、当時のものに近いディクションで演奏したい場合、理想に近い演奏を実現するために、この分析法の採用を提案する。


【第3部:特別報告】

梶田美香(名古屋市立大学大学院人間文化研究科博士後期課程)

地域全体を視野に入れたアウトリーチの在り方について−小学校音楽科での実践を通して−

 本発表は、2009年度に行ったX小学校へのアウトリーチの実践報告を中心としたものである。
Ⅰアウトリーチとは
 アウトリーチは1990年代後半から公共ホールを中心に活発化した芸術普及の手法である。広義には芸術普及に関わる全ての活動を指し、狭義には文字通り出掛けて行って行う芸術活動を指す。これまでの先行研究は、文化政策や芸術と社会の関わり合いからの研究(吉本)、学校との関わり合いにおける研究(林、小山)、海外事例についての研究(津上、吉本)、実態を調査した研究(財団法人地域創造)、各実施主体(実施する側)の活動報告などが挙げられる。吉本(2008)によれば、アウトリーチは①文化施設や芸術文化の受益者の拡大、②「サイレントパトロン」の育成、③音楽家への訓練の機会と活躍の提供、④芸術文化の社会的意義の拡大、の4つの効果が得られることがわかっているものの、一方では社会システムの構築の必要性(林、2003)などの課題も挙げられている。殊に最近の調査では、実施先の学校の教師の困惑が明らかになっており(財団法人地域創造、2009)、実施先の多くを占める学校へのアウトリーチの位置づけや効果についての検討は急務である。
Ⅱ音楽科におけるアウトリーチの効果
 学校へのアウトリーチは3つの枠組み(行事、総合的な学習の時間、音楽)のうちのいずれで行われるが、本発表では音楽科における効果に焦点をあてた。予備調査として小学校5年生を対象に行った実践の分析によれば、アウトリーチを経験した子どもたちには、プラクシス的音楽教育のプロセス(興味・関心→目的→行動→結果)と関わりのある「感心・感動」「満足・喜び」「意欲・要望」「発見・理解」の4つの内的変化が起きたことがわかっており、アウトリーチがプラクシス的音楽教育の効果的な方法であることが予測できるという結果が得られた(注)。
 既に学校音楽教育研究においては学習指導要領が美的音楽教育に傾いているのではないかという指摘がなされ(小川、1999)、またそれに基づいた分析では鑑賞領域においてその傾向が顕著であることがわかっている(梶田、2008)。2つの教育概念を対立関係ではなく往来関係にあると捉えれば学校音楽教育には両者が必要となるため、美的音楽教育に偏った鑑賞領域の補完としての効果がアウトリーチに期待されることになる。しかしその機能を十分に発揮するためには継続したアウトリーチが必要である。
ⅢX小学校へのアウトリーチ実践
 以上の予備調査を経て、2009年5月〜2010年3月にかけてX小学校4年生児童22名を対象にアウトリーチを継続的に行った。内容は鑑賞と創作の二領域とした。鑑賞はコンサートとワークショップを組み合わせた形態で音楽授業の枠組みで8回行った。創作は、不定期の複数回のアウトリーチを通して22名の児童に4〜12小節の旋律を創作させ、その全曲を5つのグループに分けた上で、各グループの4〜7曲をメドレーでつないだ作品として仕上げた。メドレーでつないで作品として仕上げる段階は、水野みか子教授(作曲)の協力を得て行われた。そして3月には作品発表会を行った。
 継続した8回のアウトリーチの結果、鑑賞では一人の児童が多様な興味、関心を持ち、それによって多様な内的変化が児童に生じたことがわかった。プラクシス的音楽教育のプロセスの途中で終わったり入口に立つことしかできなかったりした児童がいた予備調査と比較すれば、本実践では興味、関心に立脚した目的を達成するための行動をした結果として内的変化が起きた児童、つまりプラクシス的音楽教育の全プロセスを経験できた児童も少なくなかった。一方創作では、完成までの過程において作曲への興味、出来上がった作品への感動と喜び、作曲家への感謝、表現への意欲等様々な内的変化が起こったほか、作品発表会の準備段階ではクラスの共同体として意識の高まりもみられ、創作のアウトリーチの広範囲の教育的効果が感じられる結果となった。
Ⅳ実践を終えて
 1年間を通してアウトリーチには保護者が自由に参観したが、保護者の記述したアンケートからは聴衆としてアウトリーチを楽しんだ側面も見受けられ、学校へのアウトリーチが児童以外を対象にする可能性を秘めていることが予測されるものとなった。児童への効果と併せて考えると、学校へのアウトリーチは親子の芸術文化への意識に対して刺激を与えることができるということになる。つまり、音楽科教育の補完としてのアウトリーチは、本来のアウトリーチの目的である地域全体を対象にするという目的を果たすことができるのではないかと期待できる結果となった。
Ⅵアウトリーチの可能性
 しかしながら、学校へのアウトリーチを地域全体へのアウトリーチとするためには、本実践のような音楽家と教師の連携のみでは実現できるものではなく、確固したシステムが必要となる。今後はシステムの構築に向けた研究を行う必要があると考えている。
注)プラクシス的音楽教育とは、音楽との関わりに置いて「音楽中心」であるべきという立場をとる美的音楽教育の対立軸として1980年代にアメリカで論争となった音楽教育概念で、「人間中心」であるべきという立場をとっている。