第91回例会報告


[戻る]

日時:2007年12月1日(土)14:00〜17:00
会場:名古屋市立大学芸術工学部 M101室

【シンポジウム】

シンポジウム─音楽・文芸・映像 コラボレーションの形
パネリスト:
マリーノ・バラテッロ Marino Baratello(指揮者・作曲家)
拝戸雅彦(愛知県美術館主任学芸員)
栗原康行(映像作家、名古屋市立大学大学院准教授、芸術工学会会員)
コーディネーター:
水野みか子(作曲家・音楽評論家、名古屋市立大学大学院准教授、音楽学会・芸術工学会会員)
パフォーマンス:
丹治清貴(コントラバス)
水野みか子(コンピュータ)
映像データ提供:
栗原康行

「テキスト+視覚+聴覚」のコラボレーションをテーマに、中部地区での舞台創造の実験的試みの報告をしつつ、二人のゲストを支えて、音楽学と芸術工学の枠を超えてオープンな形で議論した。パフォーマンスでは、映像に対して、コントラバスとコンピュータが即興的な関わりを持って25分程度の時間を構築していった。 音楽学において、テキストと音楽のコラボレーションは、ドラマツルギーやナラティヴィティの観点から論じられてきた旨、水野からの報告があったあと、マリーノ・バラテッロ氏による提案と、拝戸氏、栗原氏による報告がなされ、パフォーマンスタイムとなった。下記は、バラテッロ氏と拝戸氏による提案文である。

 

【シンポジウム:音楽・文芸・映像 コラボレーションの形】

海馬の夢 馬場駿吉による同名俳句集より 「ソプラノと8つの楽器のための」の試み

マリーノ・バラテッロ(指揮者・作曲家)

 「俳句」とは、私にとって、直観的なものであり、過ぎ去る瞬間であり、あるいは落雷を思わせるような予期しない経験である。その経験の中においては、人は眺める対象と一体化する。俳句が短いのは本質的な事だと私は考える。俳句からほとばしる経験は、ヨーロッパ世界では、つい最近まで「アウラ」と呼ばれていた。この「アウラ」は「アリア」と関係を持つ言葉である。つまり、風やそよぎといったもので、突如として現れ、たちどころに消えていく瞬間のメタファーである。常日頃から、私はこうした体験をするので、「俳句」を理解する事は難しい事ではない。

 ヴェネツィアそのものにインスピレーションを受けた俳句集『海馬の夢』を音楽化する可能性を提案された時、私はこのような刺激的な機会を失うわけにはいかなかった。馬場駿吉のテキストは、一部にルイジ・チェラントラのイタリア語訳が含まれている以外は、曲中日本語で歌われる。作曲においては、今なおヴェネツィアに住むソプラノ歌手松島理恵(チェチリア・フランキ)との貴重な共同作業が欠かせなかった。彼女が私に俳句の意味するところを教えてくれたのである。そして、2001年3月に聖マリア・デラ・ピエタ教会で初演された。

 この作品は、短い、時に極めて短い、時には長く引き伸ばされた、イメージ胃を強く喚起するような性格をもった時間を重ねていく、幻想的な音楽形式を取る。この音楽のエピソードは句や句のグループに対応し、5音、7音、そして5音で構成された日本の短い詩が備えるイメージを強く喚起する性格に従った。その喚起の仕方は、しばしば、曲の冒頭に置かれた二つの俳句のように、身振り的な性格をも持つ。「わが肉を墜つ血昇る血更衣(わがにくをおつちのぼるちころもがえ)」「一身に大罪七つ更衣(いっしんにたいざいのなつころもがえ)」。更衣は、非常に象徴的な性格を持つ古い儀式であるとも聞いていた。

 

コラボレーションは悪夢か

拝戸雅彦(愛知県美術館主任学芸員)

愛知芸術文化センターは美術館と劇場やコンサートホールが共存するのはハードだけだはない。美術館に私のような企画展を手がける学芸員がいるのは当然としても、パフォーミングアーツを企画する学芸員が文化情報センター(主としてダンス、音楽、映画)と、文化振興事業団(オペラを中心とする音楽、演劇)に分かれた形で在籍し、既に15年近く企画の実績がある。
2006年の夏に美術館で行われた現代美術展「愉しき家」においては、文化情報センターの学芸員の協力を得て、美術作品としてのみ展示された作品を舞台のように設置してもらい、「息づく家」と題して、ダンサーと音楽とを組み合わせた三つのパフォーマンスを行った。
 というのも、この展覧会においては、絵画や映像のイメージばかりではなく、人が出たり入ったり出来るようなスケールの造形的な家を、立体作品として一部展示していたのである。(パフォーマンスに用いたのは、塩田千春、牛嶋均、乃美希久子の作品)したがって、触れたり、中に入ったりする体験型の作品が、現代美術の現場に増えて来たという現在の状況においてさえも、「家」をテーマにしたこの展覧会ほどパフォーマンスを行うのに都合のいい展覧会はないだろうと考えた。
 目的は、複合的な機能を持つ芸術文化センターにおいて、ジャンルを積極的に複合化させていることを見せること。さらに、普段、パフォーミングアーツにしか関心がない人の間にも、現代美術に対する関心を呼び起こすということ。つまり、パフォーマンスを通して美術作品の理解を促すというよりは、むしろ、その場で行われるダンスや音楽が、現代美術に対して関心を呼び起こすのではないか、と考えたのである。
 従って、私個人としては、美術作品、ダンスと音楽の三者が融合する事業として考えたわけではなかった。希有な鑑賞体験であったことは間違いない。しかし、ダンサーと音楽化の即興性を重視したためもあってか、美術作品が必然的に持つ堅固な物質的な構造に、ダンスと音楽が表面的に絡みついていったもの、という印象を受けた。言うまでもなく、パフォーマンスは、常に鑑賞者に一時的な内的な興奮を呼び寄せる。言い換えれば、受けてにならざるをえないほど目をひきつけ圧倒的である。作り込んだ舞台においてすら、エフィメラル(つかの間性)で「その時」性が強い。それに対して、作品展示の方は、「その場」性が強くて、鑑賞者に作品との対話を静かに迫る。目と身体を動かして、積極的に働きかける事がなければ、そこからは何も見えて来ない。
 また、暗く閉ざされ証明を内容に応じて人工的にコントロールする劇場の中で、例えば、オペラという、舞台芸術、音楽、テキスト、ダンスが登場する「総合芸術」を鑑賞すれば、ほとんどの人が陶酔することは間違いない。ただし、これは理解するのとは別の事である。

絵画(あるいは平面的な表現)を単純化すれば、図(手前)と地(背景)に還元される。両方を観察して全体として見る事はその習慣がなければ難しい。彫刻にすら、実際には存在しないとしても、それが立つ背景を想定させる。音楽においても同様だろう。流れていくメロディー(図)と、それを響きとして支えるその地(背景)となる和音とリズムの両方を聞き取る事に慣れていく必要がある。ダンスもまた身体の動作と静止の二分法の中で鑑賞されるべきだろう。選択された素材に応じて、最低でも二つぐらいのファクターがそれぞれのロジックで入り込んで堅固な構造となったのが作品である。コラボレーションと呼ばれるからには、異なる素材による構造物同士が、一つの場所で合体する必要がある。既に構造化された複数のものが、一つの構造となるためには、考慮すべきファクターが多すぎると見なすべきだろう。
 そのため、ダンスと音楽、そして美術とが渾然一体となる世界を作り出すためには、その構造が持つファクターを抽出して理解する必要がある。集まった多分野のアーティストたちが、短時間の内に理解すること、あるいは理解しあう事は不可能である。せいぜい互いの成果を利用出来るだけである。
 ただ、可能性がないわけではない。美術の表現にも音楽の表現にも、その構造の中には必然的にも見える強弱があり、その強弱を別のファクターと組み合わせるという事が出来るように思えるのだ。例えば、彫刻作品には必然的に正面と背後があり、彫刻の背後を弱とみなすことが出来るだろう。バロック音楽のオラトリオやカンタータは、音楽が持つ強弱、言い換えれば、緊張と弛緩、上昇線と下降線を利用しつつ、文学性と音楽性とを成立させた構造に見える。石田尚丈の『フーガの技法』は映像の時間軸と、音楽の時間軸を組み合わせた試みと考えてよいのではないか。
 一方で、作品を理解し鑑賞する側の問題もある。美術と音楽の両方を理解出来る人はそうはいない。通常の場合、鑑賞者が時間の流れの中、で勝手に好きな事のみを都合良く感じ取る経験となり、総合的に理解されたとは言いがたい。我々が詩や音楽、美術をそれ自体として理解する事すら難しいのに、さらにそれが組み合わせられた形のコラボレーションを、総合的に理解する事は困難を極める、と単純にそして素直に認めるべきだろう。
作り手たちがそれを完璧な形で作り上げることは難しい。さらにはその理解者を求めることも難しい。その困難さを認識した上で、取り組むべき課題だと思うのだ。

その一方で、ダンスを見ながら音楽を聞き、そして背後に映像表現などが加わったパフォーマンスの結合体は、「作り手という神」と「十全に理解する」というフレームさえはずしてしまえば、十分に楽しめるものであることは間違いない。鑑賞者は何をそしてどこを見ているのか、何をあるいは誰を聞いているのか、分からないような渾然とした状態になるが、全てを短時間で体験する「お得」感のある時間へと誘うからだ。その方向が、多くの芸術が向かうところの洗練さとは対照的であることは認めるべきだろう。しかし、奇跡的にうまくいけば、我々が不意に巻き込まれる夢にも近い時間へと接近する可能性を秘めているとも言えないだろうか。ただし、一つ間違えれば、それが悪夢に変わることを承知しながらも。




[戻る]