第89回例会報告


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日時:2007年3月24日(土)10:30〜16:20
会場:B-nest(ビネスト)静岡市産学交流センター・ペガサート7階大会議室

【第一部 研究発表(修士論文発表)】

西洋芸術音楽の鑑賞者育成に関する事例研究 イメージの形成から聴取技能の発達へ:中村かおり(静岡大学)
MAX/mspを用いた自作ソフトプログラミング 楽器の”やまびこ”、”こだま”の音楽教育への応用:桐山佳子(愛知教育大学)
ピアノ演奏における楽譜 鍵盤の視線移動とそのタイミングが及ぼすミスタッチへの影響について:祝田佳子(愛知教育大学)
日本における生涯教育としての二胡教育法 東アジアの伝統音楽の視点から:梁 天任(三重大学)

【第二部 研究発表(卒業論文発表)】

新城市における吹奏楽の現状 中学・高等学校に焦点をあてて:浅井由紀子(名古屋芸術大学)
ウジェーヌ・イザイ<無伴奏ヴァイオリン・ソナタ作品27>の書法 ヴァイオリン奏法の視点から:今井千晶(愛知県立芸術大学)
ヘンデルのオラトリオ<サウル>における借用 劇的要素との関連を中心に:大野悠子(愛知県立芸術大学)
ヨハンネス・ティンクトリス著<手の注釈 Expositio manus>の研究:小高早希(名古屋音楽大学)

【第三部 研究発表(修士論文発表)】

明治期仏教唱歌の輪郭:内川澄俊(名古屋芸術大学)
F.ショパン バラード第4番op.52の運指法 弟子や近親者の証言と各版の運指に着目して:松井祐樹(岐阜大学)
プロコフィエフのバレエ<ロミオとジュリエット>op.64 音楽構造の分析を中心に:鳥山頼子(愛知県立芸術大学)

 

【卒業論文・修士論文発表】

■発表要旨

西洋芸術音楽の鑑賞者育成に関する事例研究 イメージの形成から聴取技能の発達へ

中村かおり(静岡大学)

音楽鑑賞とは、芸術作品に触れ、作品について学び、その情動性を自分自身で感じることであると考えることができる。鑑賞の能力は教えられる事と教えられない事があり、前者は作曲者のことや楽曲についての知識で、後者は音楽を聴いて感じる感性である。この感性は、個人の経験や考え方によって異なる。

音楽を感じるためには、まず音の流れに身をゆだね、集中して聴くことが重要である。その後、その音楽をイメージしようと努力していく。つまり、音楽のイメージを形成することである。イメージすることとは、自分が見聞きしたこと、体験したことを思い起こしていくことである。また、それらと主体の感覚が結びつくことによって、個人の中で自由な発想が繰り広げられる場合をも指す。

本研究では、M.ムソルグスキーの組曲<展覧会の絵>から<卵の殻をつけたひなどりのバレエ>と<キエフの大門>を取り上げ、中学校において鑑賞授業を行った。この組曲作曲のきっかけとなったとされているデザイン画を、音楽外的なものとして取り入れる方法と、音形のパターンに着目し、図形楽譜をかく方法の2つの授業展開を設定した。全体の流れとしては、はじめに通して演奏を聴き、評定尺度のアンケートの印象を記入する。それぞれの授業を行い、最後に再び演奏を聴いて、内容が同じアンケートに印象を記入するという授業である。この2回アンケートの差を基に、印象の変化を比較した。

印象の変化が大きな項目が多かったのは、図形楽譜をかく授業であった。この授業の変化が大きかった要因として、図形楽譜をかくことによってイメージができたことと、何度も聴くことで印象が変化していくことが挙げられる。

「情景を思い浮かべながら聴こう」と表記されることがしばしばあるが、音楽外的なものなどによって知識を得てから聴くことばかりするのではなく、まずはじっくりと音を聴き、それから音のイメージを膨らませていくことによって、情景を思い浮かべることができるのではないだろうか。音を聴いて感じていくことが、音楽鑑賞なのである。

 

MAX/mspを用いた自作ソフトプログラミング楽器の”やまびこ”、”こだま”の音楽教育への応用

桐山佳子(愛知教育大学大学院)

[研究の概要]

本研究では、音楽のプログラミング言語であるMAX/mspを使用し、小学校の授業現場で活用できるような<創造的音楽づくり>のプログラミングを開発した。さらにその開発したプログラムを小学校で実験的に使用し、子供たちが創作するその様子を記録し、有効性についての検証を行った。

[研究の目的、意義]

コンピュータを活用した創作指導はとかく、MIDIを前提としたキーボード的なものを用いた作曲活動を想起しがちである。そこには、ハーモニー、和声進行といった楽典が存在し、音楽的なメロディー作曲にはその知識が必要となる。この研究では、このような楽典的和声学から開放されたsound compositionの分野で、様々なsoundを自由に組み合わせることによって「音をデザインする」という創作活動と、その活動によって子供たちが生活の中での耳からの刺激に敏感になり、音を楽しみ、自分で音を作ることの面白さに気づくことを目指した。プログラミングにおいて留意したのは下記の5点である。

@児童の活動に対してインタラクティブなソフトであり、ゲーム性があること。
 A簡単なインプットで、システムを動かし「音」というアウトプットをだすこと。
 B大勢の児童がいる教育現場での「創作の共有」が可能であること。
 C音楽的な経験の優劣さが出ないインプットであること。
 D楽典などの音楽的な縛りから自由であること。

[実験について]

被験者は愛知県内の公立小学校3校の16名で、二年生から四年生までの児童を無作為に抽出した。期日は、2006年8月22日〜24日である。実験では、筆者の製作したソフト、計3本を使用し、一人当たり20分〜30分の時間で筆者と被験者の1対1での実験を行った。実験評価は、実験終了後に実験校で立ち会っていただいた音楽教師にヒアリングを行い、それをもとに考察した。

 

ピアノ演奏における楽譜 鍵盤の視線移動とそのタイミングが及ぼすミスタッチへの影響について

祝田(夏目)佳子(愛知教育大学大学院)

[問題の所在と研究目的]

パソコンの上達に”ブラインドタッチ”(タッチタイピング)は肝要であるが、ピアノ演奏も同様ではないか。それは、キーボードを叩く同じ条件を持つからである。ただし、ピアノの88鍵盤上では、完全なブラインドタッチは難しい。そこで、ピアノ演奏において、楽譜と鍵盤の視線移動について、熟達者・初級者によって、鍵盤を見ないで演奏する時間などがどのように異なるか。熟達者・初級者の特徴が、ミスタッチとどのような関係を有しているのか、を明らかにする。

[研究の方法]

実験課題:リヒナー作曲「短いお話」。選定理由は、1)鍵盤上で指が遠くへ移動する箇所があり、熟達者でも視線を楽譜から鍵盤に移さざるを得ない。2)ミスタッチしやすいが初級者にも弾ける小曲である。</P> 実験機材:ビデオカメラ(panasonic NV-GS 200KとSONY DCR-PC105 NTDC)2台を使用。手の動き、演奏中の目の動きを2方向から録画。

被験者:愛知教育大学で指導の熟達者2名、ピアノ初級者2名(9歳と12歳)。

データ解析:映像をiMovieHDとUleadVideoStudio6で編集。楽譜を見る時間、鍵盤を見る時間、楽譜からキーボードに視線を移すタイミングを測定。

[実験結果]

@熟達者は、初級者よりブラインドタッチでの演奏時間が長く、楽譜と鍵盤間の視線移動速度が速い。
 A初級者は、視線を鍵盤から楽譜、楽譜から鍵盤へ移動させるタイミングが遅れることでミスタッチ、乱れを起こす。特に、演奏する音の鍵盤上の移動距離が長い時ミスタッチしやすい。
 B先行研究「ギター視奏における先読み時間について」では、既知曲の演奏で初級者・中級者・上級者ともに先読み時間の長さは0.5から1.5秒であった。本研究では、初級者・熟達者とも先読み時間は1から2拍で、音の認識時間も1秒以下であった。

 

日本における生涯教育としての二胡教育法 〜東アジアの伝統音楽の視点から〜

梁 天任(三重大学大学院)

今日、日本に渡米した中国楽器の二胡は日本の色んなジャンルの音楽に進出している。しかし、二胡音楽について、単なる面白い異国の楽器といった見方や、日本音楽の新鮮な調味料として二胡を使用しただけという皮相的な見方が存在している。また、二胡の学習に対して、単にブームを追いかけて練習しているだけだろうというような偏見も存在している。二胡を「中国伝統楽器」としてしか見ていないことは日中両国の間に沢山存在している共通の音楽伝統要素を考慮していないからである。現在、沢山の日本人が二胡教室で二胡を練習し始め、二胡音楽を楽しみ始めている現状がある。しかし、市販の二胡教本は沢山出ているが、中国の二胡教育法を参考、再吟味して編纂したものが多く、日本における独自の教育法については触れていないのが現状である。この二胡教育法は日中共通する東アジア音楽の伝統を重視する。日本の人々が二胡の生涯学習を通して、中国二胡音楽文化伝統の精粋を吸収、技法を参考にし、さらに自国の音楽を二胡で演奏、創作、@日本の音楽文化を豊かに発展させていくこととA東アジアの新しいジャンルとして日本二胡音楽の形成を目指すべきであることをこの論文では主張したいと思っている。二胡音楽を単に中国一国における伝統文化として捉えるだけではなく、東アジア全体にわたる、アジアの音楽的伝統にもとづいた新しい音楽としてとらえ直すことにしなければならない。この先を展望していけば、日本伝統音楽や日本の地域の色んな優れた音楽を二胡でより深く表現することで、東アジアの新しいジャンルの日本二胡音楽の発展が期待できる。この二胡音楽の価値を理解しようとするなら、中国音楽の一部分として理解するだけでなく、東アジア全体に目を向けることが必要である。日本音楽を二胡で表現したり、日本独特の二胡音楽の作品を出したりする探索は、中国音楽と日本音楽の比較をはじめ、他のアジア音楽ジャンルの探索、比較を通して、相互の音楽文化の価値に対する認識を深めることによって、日本、中国音楽の素晴らしさを再認識することもできるはずである。

 

【研究発表(卒業論文発表)】

新城市における吹奏楽の現状 〜中国・高校に焦点をあてて〜

浅井友紀子(名古屋芸術大学)

筆者の住んでいる新城市では、児童・生徒数が減っている中、中学校では吹奏楽部員も減少し、吹奏楽のコンクールに参加しない、また楽器が足りないという厳しい現状である。また週5日制の実施による授業時間数の縮減、各教科の教員の減少により、音楽に限らず各教科の指導力の低下を指摘する声も少なくはない。各教科の教員の減少や吹奏楽部を他教科の教員が指導している学校も多い。もちろん様々なプラス面も認められるが、音楽教員の綿密な指導に欠ける点もある。そのような現状の中で、中学校・高校における吹奏楽の問題点、課題を明らかにし、どのようにして吹奏楽を運営し活性化していくか、さらに新城市の音楽文化をどう発展させていくかを具体的に明らかにすることが小論の目的である。

第1章では新城市内における中学校・高等学校の吹奏楽部の現状を知るために、吹奏楽部の現状・指導について、さらに教育的観点についてインタビューとアンケート調査を行った。そこから教育的な面、音楽的な面で様々な問題点が明らかになった。また、人間関係の形成に関して教師の多様な指導が明らかになった。

第2章ではインタビューとアンケート調査から見えてきた問題点、それを解決するために、吹奏楽界で活躍されている先生方の方法を参考に、筆者独自の吹奏楽指導の新たな発想を掲げた。それは新たな基礎練習の方法を基盤に、歌唱・聴取活動を導入し豊かな音楽表現を目指すというものである。

第3章では、第2章の発想を元に指導の実践を行った。その結果、筆者の発想には長所と短所の両面が認められ、短所に対しては新たに修正を加え、さらに踏み込んだ指導法を導くに至った。

小論は卒業後筆者が指導していく出発点であり、さらに追求し高めていくための原点である。

 

ウジェーヌ・イザイ Eugene Ysaye <無伴奏ヴァイオリン・ソナタ>作品27における書法 〜ヴァイオリン奏法の視点から〜

今井千晶(愛知県立芸術大学)

イザイ Eugene Ysaye(1858〜1931)の<無伴奏ヴァイオリン・ソナタ>作品27は、近年ヴァイオリン作品の中で最も注目されている作品と言えるだろう。作品は6曲から成り、それぞれは高名なヴァイオリニスト達に献呈されている。そのためか、この作品には、他のヴァイオリニスト兼作曲家の作品には見られない書法が見られる。その書法は、演奏をする際に演奏者のみが理解できるものであるため、これまで深く言及されることはなかった。そのため本論文では、ヴァイオリン奏法の視点から分析する事で、この作品における独自性を示す事を目的としている。第1章では、イザイ作曲家としての位置を述べる。第2章では、無伴奏ヴァイオリン作品群における位置、ざらに、成立状況と、受容の動向について述べることで、<無伴奏ヴァイオリン・ソナタ>作品27の背景を明らかにする。第3章では、この作品の独特の書法についての分析を行う。第1節で、6曲すべてに共通して見られる書法について論じ、ヴァイオリン演奏をする者でしか書きえない、演奏効果を挙げる目的を明らかにする。第2節では、各曲それぞれの個性が独自の書法で書き分けられていることに注目する。それぞれの作品における様々な個性をより音楽的に表現するために、イザイはヴァイオリン奏法を書き分けている。第3章の分析からは、ヴァイオリンの演奏効果の追求の上に個性が表現されている事から、それぞれが他のヴァイオリニスト兼作曲家の作品は、ほとんどが、技術開発のためのものであった。対して、イザイ<無伴奏ヴァイオリン・ソナタ>作品27における書法は、この部類には入らないものであり、ヴァイオリニスト兼作曲家の新しい作曲スタイルを確立できた作品である。これは受け継がれることのなかった独特の書法であるが、独特の注目すべき書法であり、ヴァイオリン作品の中でも重要な位置を占める作品であると言うことができるだろう。

 

ヘンデルのオラトリオ<サウル>における借用 〜劇的要素との関連を中心に〜

大野悠子(愛知県立芸術大学)

ヘンデル(1685〜1759)のオラトリオ<サウル>は、1738年に作曲された、初期のオラトリオの傑作として知られる。ちょうどこの時期、ヘンデルは他の作曲家の作品を頻繁に借用するようになる。本論文では、<サウル>における借用が「劇的要素」と関連づけられることを示す。「劇的要素」は、この作品の劇的な部分、つまり盛り上がる場面や重要な場面に見られる音楽的特徴である。この「劇的要素」と借用とか関連づけられることを示すことで、<サウル>における借用の重要性を明らかにする。それとともに、<サウル>の中でヘンデルの借用は何を意味していたのかを考察する。

第1章ではヘンデルのオラトリオ作品を概観し、<サウル>を機にヘンデルは他の作曲からの借用を頻繁におこなったこと、またそれによって自らの技法を高めていったことを示す。第2章ではオラトリオ<サウル>を詳細に考察する。第1節では作品の成立を述べ、第2節では<サウル>の音楽全体に見られる音楽的特徴を述べる。ここでは「調性の変化」「多様なオーケストレーション」「レチラティーヴォとアリアの不規則性」「合唱の活用」を<サウル>における劇的要素として挙げ、<サウル>の音楽的特徴とする。第3章は<サウル>の中の借用について考察する。第1節では、ヘンデルの借用に関してどのように述べられてきたのかを、先行研究の考察を通して明らかにする。第2節では<サウル>の中の借用を具体的に考察する。<サウル>にはフランチェスコ・アントニオ・ウリオ(1931〜1719)の<テ・デウム>が借用されている。<テ・デウム>の楽曲が使われているのは、<サウル>のなかの盛り上がる場面や重要な場面、つまり劇的な場面である。このことから、借用は劇的要素と関連していることが明らかになる。またヘンデルは借用した素材を、独自の方法で発展されている。そうすることでヘンデルは、自分の作曲技法に刺激を与え、その技法をより豊かにするために借用をおこなったのではないかといえる。

 

ヨハンネス・ティンクトリス著<手の注釈 Expositio manus>の研究

子高早希(名古屋音楽大学)

本論文では、ヨハンネス・ティンクトリス(Johannes Tinctoris 1435年頃〜1511?年)による音楽理論書<手の注釈 Expositio manus>について研究を行った。ティンクトリスは、存命中から今日に至るまで音楽理論家として高く評価されている。この<手の注釈>では、いわゆる「グイードの手」やソルミゼーションについて論じられている。

「グイードの手」という呼称は、中世の音楽理論家、グイード・ダレッツォ(Guido d'Arezzo 991、92年頃〜1033年以降)の名にちなんだものである。しかし、本当にグイードによって考案されたものなのか今日疑問視されており、またいつ頃から「グイードの手」が理論書の中で言及されるようになったのか正確に分かっていない。そこで、本論文では<手の注釈>を訳出し、考察することで、「グイードの手」やこれに関連するソルミゼーションがルネサンス期にどのように論じられていたのかを明らかにしようと考えた。

<手の注釈>は、序文と9つの章から成り、全体はこの「グイードの手」を使ってどのようなことが学べるか、という実践的な内容に重点が置かれている。本論文では、特に<手の注釈>第3章「De clavibus」と第4章の「De vocibus」の項について詳しく考察している。すなわちティンクトリスは、これらの章において「音名」と「音部記号」を、そして「階名」と「楽音」を同義語として使用しており、またこのような同義語として用いるのはティンクトリスだけなのか、あるいは当時の一般的な使い方であったのか、という疑問点も見られたため、詳細な検討を行った。

<手の注釈>は、論述が細部に渡っており、当時の「グイードの手」に関する知識の集大成であると言える。それゆえ今回の研究から「グイードの手」が、ルネサンス期にどのような人を対象に用いられ、またどのように論じられたのか、明らかにすることができたと考える。

 

【研究発表(修士論文発表)】

明治期仏教唱歌の輪郭

内川澄俊(名古屋芸術大学大学院)

今回行うのは、明治時代中期から大正時代初期頃まで隆盛した仏教唱歌についての研究発表である。論文内では当時の唱歌集44冊全てを解説して、分類、解説などしているが、今回の発表は、仏教唱歌という用語そのものが耳慣れないものである事を思い、簡単な紹介に留めたいと思う。

唱歌、と言えば明治15年に刊行された小学唱歌集が有名だが、最初の仏教唱歌集「仏教唱歌集」が刊行されたのは明治22年である。刊行者である仏教唱歌会の中心人物であったと思われる岩井智海という僧は刊行当時東京音楽学校に学んでいたことから、仏教唱歌は文部省唱歌に影響を受けて誕生したと考えられる。

上述の唱歌集には<法の深山>(のりのみやま)という楽曲が掲載されている。小学唱歌集に掲載されている<春のやよい>の詩に想を得たものであると言い、どちらも四季の移ろいを四句一章、つまり仏教歌謡である和讃の形式によって歌っている。<法の深山>の旋律は越殿楽今様であり、大変親しまれたと言う。

また、楽譜についてだが、文部省作成の唱歌と異なり、仏教唱歌のほとんどには楽譜がついていない。明治22年の「仏教唱歌集」(上述)には楽譜が付けられているが、こちらの形態の方がむしろ珍しいのである。

ひとつの民謡風の短い旋律に、長大な歌詞を次々と歌っていく南里「仏教唱歌集」(M44)のようなものもあった。

「仏教唱歌集」(M22)の中から<五高僧>を取り上げ、その音楽的特徴を、有馬大五郎の、日本人の歌唱行動に見られる特徴的な旋律型の考え方に基づいて説明を試みた。

この楽曲は一見してg mollの旋律である。しかし邦楽のような印象も強く、音列を見れば前半後半共に有半音の四音又は五音で構成されていることがわかる。

この楽曲は作者が不明であるが、メソジスト出版「基督教聖歌集」(M24)には"IMAYO"として掲載されている。日本特有の旋律であると見ていいだろう。

明治の仏教唱歌集を総合して見ると、旋律は文部省唱歌に較べると邦楽感の強いものが多く、より市井に根ざしたものであると言える。

俳句は七五調がほとんどであり、和讃に倣ったものであると考える。

旋律を有さないものも多くあることから、仏教唱歌は俳句を中心として成り立っている、と窺えるものである。

詞の内容は仏の得を讃える、善行を勧める、ものが多く、子供などを対象とした精神的な育成が目的であったようである。

 

F.ショパン バラード第4番Op.52の運指法 〜弟子や近親者の証言と各版の運指に着目して〜

松井祐樹(岐阜大学大学院)

1 研究の目的

本研究は、ショパン(Fryderyk Chopin 1810-1849)作曲「バラード第4番 Op.52」の運指法を検討するものである。運指を考えることによって得られる効果は大きく分けて2つあると私は考えている。第1に、楽曲に出てくる様々な音形を効率よく弾けるようになるということである。第2に、作曲者が意図した音色を、運指を考えることによって効果的に表現することを可能にするということである。ショパンは、弟子が残したメモなどから、特に後者を強く意識した作曲家であったといえる。そこで、ショパンのピアノ作品において、ショパンの運指の特徴を調査し、新たな運指の私案を考えることは非常に意義のあることであると考えるようになり、本研究のテーマを設定した。

2 研究の方法

本研究では、弟子の証言やショパン自身が残したメモや、ショパンが楽譜に記した運指を調査し、ショパンの運指の特徴を考察した。また、ピアニストとしても活動していたショパンが、どのような演奏を行っていたかも調査し、ショパンがどのような音楽表現を求めていたかを考察した。

また、自筆譜と初版に基づくパデレフスキ版、同じく自筆譜と初版に基づくナショナルエディション、ショパンの弟子であるミクリが校訂したミクリ版における運指を比較し、その違いと共通点を調査した。これらの調査と考察から、「バラード第4番 Op.52」における運指の私案を検討した。

3 構成

はじめに

第1章 ショパンの音楽
 第1節 ショパンの運指
  1.弟子や近親者の証言からみた運指法
  2.楽譜にみられる運指法
 第2節 ショパンの演奏

第2章 バラード第4番 Op.52について
 第1節 作品について
 第2節 各版における運指の比較
  1.各版の運指の違いと、その違いから生まれる表現の可能性について
  2.各版に見られる共通の運指

第3章 「バラード第4番 Op.52」の運指の私案

おわりに まとめと今後の課題

4.研究の成果と今後の課題

運指に注目することで、体(指や手、腕)の使い方と求める音楽表現を結びつけて考えられるようになったといえる。今後はショパンの地の作品についても調査・研究を進めていきたいと考えている。

 

プロコフィエフのバレエ <ロミオとジュリエット> op.64 〜音楽構造の分析を中心に〜

鳥山頼子(愛知県立芸術大学大学院)

バレエ<ロミオとジュリエット>op.64は、プロコフィエフ Sergio Prokofiev(1891〜1953)が1935〜36年に作曲したバレエ作品である。プロコフィエフは、台本の作成からこのバレエの創作に係わり、全4幕52曲の音楽を作曲した。これまでの<ロミオとジュリエット>の作品研究においては、成立過程の検証や、バレエの振付の研究などが大勢を占め、作品の音楽構造に焦点を当てた研究は多くなかった。そこで、本研究では、楽曲分析を通じてこの作品の音楽構造の特性を明らかにし、プロコフィエフのバレエ音楽に対して新たな作品観を提示することを目的とした。さらに、この作品に対して別の観点からの作品解釈を見出すべく、たびたびバレエ音楽との関連性が指摘されるプロコフィエフの交響曲と、<ロミオとジュリエット>の音楽構造の比較考察を行った。

考察の結果、バレエ<ロミオとジュリエット>では、細かな楽曲の連鎖と、さまざまな機能を持つ数多くのモチーフにより楽想の表情豊かな交替が生み出され、音楽がバレエの劇的展開を支えるとともに、それを細かく規定していることが明らかとなった。この綿密な音楽構造は、プロコフィエフが古典的な全幕物バレエの枠組みにおいて、独自の音楽的ドラマトゥルギーをもとに創造したものである。

その結果、この作品は、それまでの全幕物バレエの歴史においても、特異な構造原理を持ったバレエ音楽となった。一方、<ロミオとジュリエット>とプロコフィエフの交響曲の音楽構造には相互関係が認められ、互いの音楽様式の成熟に、それぞれの作曲経験が寄与していることが分かった。この点から、<ロミオとジュリエット>は、プロコフィエフの作品史においても、いっそう重要な作品として捉えなおすことができる。


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