第83回例会報告


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日時:2005年3月19日(土)13:00〜17:00
会場:名古屋市立大学芸術工学部芸術工学棟M101教室

【卒業論文・修士論文研究発表】

「ポドルスキーの音楽処方曲目リスト」について:林麻梨子(名古屋音楽大学)
蜷川幸雄演出「ハムレット」(1988)における音楽〜オフィーリア狂乱の場面を中心に〜:藤城円(愛知県立芸術大学)
受け継がれる尾張萬歳の音楽〜東海市萬歳保存会の活動を中心に:竹内さや香(名古屋芸術大学)

【シンポジウム:「リズム」と「間」のせめぎ合い】

司会:高橋隆二(三重大学)
パネリスト:西川まさ子(ゲスト、日本舞踏西川流)、大西友信(コーディネーター、名古屋音楽大学)、江村哲二(金城学院大学)

 

【卒業論文・修士論文研究発表】

■発表要旨

「ポドルスキーの音楽処方曲目リスト」について

林麻梨子(名古屋音楽大学)

日本における音楽療法に関する文献<音楽療法最前線>(1994年、小松明・佐々木久夫編、人間と歴史社)の巻末に、「ポドルスキーの音楽処方曲目リスト」というものが紹介されている。この処方曲目リストには、「不安神経症の音楽処方」「うつ状態の音楽処方」「神経衰弱状態の音楽処方」「心身症の音楽処方(高血圧の処方)」「心身症の音楽処方(胃腸障害の処方)」という病気の症状に対して、作曲者名と音楽作品名がそれぞれ10数曲記載されている。この「ポドルスキーの音楽処方曲目リスト」について調べるために、ポドルスキー Edward Podolsk(1929年〜)によって編纂された論文集<Music Therapy(音楽療法)>(1954年、New York)を使用した。

<Music Therapy>には、音楽療法士、作業療法士、医学博士など、あらゆる領域の研究者たち39人による論文が、編者自身の論文2編を含み計32編ある。その中の論文を調べた結果、5編の論文から「ポドルスキーの音楽処方曲目リスト」に記載された音楽作品を見つけ出すことができた。(注1)

<Music Therapy>の論文に記載された音楽作品と<音楽療法最前線>に記載された「ポドルスキーの音楽処方曲目リスト」を比較すると、相違点を数点見出すことが出来た。中でも最も重要な違いは、この処方曲目リストがポドルスキーによるものでないことであった。この処方曲目リストと同様の音楽作品が記載されていた論文の著者はポドルスキーではなかったのである。

そこで、日本で<Music Therapy>がどのように紹介されてきたのか、日本の文献を調べた。すると、年月が経つうちに<Music Therapy>の内容について、詳しく紹介されなくなっていた。そして、出版年が新しい文献になると、次第に「ポドルスキーによる音楽処方」「ポドルスキーが使った・・・」などの表記が目立つようになっていた。<音楽療法最前線>において「ポドルスキーの音楽処方曲目リスト」と表記されたものも、その一例である。確かに<Music Therapy>の編者は、ポドルスキーである。しかし、これでは処方曲目リストをポドルスキーが一人で作成したと、誤解してもおかしくない。

<Music Therapy>が出版された当時、その論文集によって刺激された日本の研究者たちは、そこから音楽療法に関する多くの知識を吸収し、紹介した。そのような事実がある以上、<Music Therapy>は、まさに日本の音楽療法の「火付け役」(注2)であるといえる。

音楽療法の考え方も時代の移り変わりとともに変化している。そういう状況にあるからこそ、音楽療法の「火付け役」である<Music Therapy>は、もう一度正確に理解され、紹介されるべきである。

注1
「不安神経症の音楽処方」=J.Girard:Music Therapy in the anxiety stats,E.Podolsky(ed.):Music Therapy,P.101-106
「うつ状態の音楽処方」=E.P.Herman:Music Therapy in Depression,E.Podolsky(ed.):Music Therapy,P.112-115
「神経衰弱状態の音楽処方」=E.P.Herman:Relaxing Music for Emotional Fatogue,E.Podolsky(ed.):Music Therapy,P.116-120
「心身症の音楽処方(高血圧の処方)」=Paul Sugarman:A Musical Program for Emotional High Blood Pressure,E.Podolsky(ed.):Music Therapy,P.151-154
「心身症の音楽処方(胃腸障害の処方)」=Paul Sugarman:Music Therapy in Psychosomatic Gastric Disorders,E.Podolsky(ed.):Music Therapy,P.147-150

注2
村井靖児:「音楽療法の基礎」音楽之友社、1995年 P.42

 

蜷川幸雄演出「ハムレット」(1988年)における音楽〜オフィーリア狂乱の場面を中心に〜

藤城円(愛知県立芸術大学)

新劇は、広義の演劇という枠組みの中でも、音楽との密接な関わりを持たずにテクストに重きをおいて発展した分野である。しかし、新劇において音楽は大きな劇効果を生む要素である。この研究では、1988年に上演された蜷川幸雄演出「ハムレット」を分析し、音楽の働きや効果を明らかにすることで、現代演劇における音楽の地位を再確認する。

蜷川幸雄の演劇活動を概観すると、演出の手法に変化は見られるものの、演出を含めた彼の生き様には、体制への反抗という本質的な特徴があることがわかる。この特徴は、彼の演出作品の多くで顕著にあらわれており、特に「ハムレット(1988年)」第4幕第5場のオフィーリア狂乱の場面では、従来蜷川演劇の特徴とされてきた”階段構造の舞台”の手法に加え、劇中音楽の働きによって、反体制的姿勢が効果的に表されている。

「ハムレット」(1988年)は、物語の舞台を室町時代の日本に置き換えて上演された。視覚的な効果では、お雛様に見立てた雛壇での人物配置で権力構造を明らかにし、権力への憎悪感を皮肉を込めて描いている。また、上演における音楽を劇効果としての働きで分類すると、人物の感情を伝えるためのものが圧倒的に多く、同一音楽が複数回にわたって使用され、なおかつそれが質の異なる内容を表現するという状況はほとんどない。これらのことからも、視覚的効果のみならず、音楽に対しての慎重な姿勢がうかがえる。

第4幕第5場のオフィーリア狂乱の場面において、雛壇を利用した人物配置方法と劇中音楽はともに効果的に働いている。狂乱のオフィーリアが登場するシーンでは、いかにも哀切な雰囲気のある弦楽曲が使用されるが、これまで多くの学者に指摘されてきた悲愴美としてのオフィーリアの人物像を協調するのではない。雛人形の並びに倣って権力者ほど上段に配置するこの作品でのルールを逆手にとって、最高権力者である王と妃を最下段に配置し、和装から洋装への衣装の移り変わりや、オフィーリア以外の人物の動きを極端に抑制するといった演出がなされている。そして、王たちは大げさにオフィーリアの狂乱を嘆き悲しむが、その悲しみに哀切な雰囲気の音楽は過剰に同調する。視覚的効果から得られるオフィーリアの自由な雰囲気とこの同調の過剰さによって、却って王たちの悲しみは不自然なものとなり、結果的にオフィーリアは宮廷世界の体制から解放されるのである。

新劇の流れを汲む現代演劇において音楽が伴奏的地位に押しやられる傾向が残る中で、蜷川幸雄演出「ハムレット」(1988年)は音楽を効果的に使用した作品であり、音楽が演劇の一要素として重要な役割を果たしうるということを証明している。

 

受け継がれる尾張萬歳の音楽〜東海市萬歳保存会の活動を中心に〜

竹内さや香(名古屋芸術大学)

私の住む知多半島では尾張萬歳という民俗芸能が伝えられています。以前は貧しい農民たちの娯楽、また重要な収入源となる出稼ぎの一つでもありましたが、現在は保存会の会員など限られた人によって舞台で演じられています。

私は尾張萬歳の成り立ちを理解したうえで、その音楽的性格や伝承の方法を調べたいと思いました。そこで、文献による調査と、東海市萬歳保存会会長の早川氏への面談を行い、彼が講師を務める「子ども御殿萬歳教室」の練習の参与観察も行いました。また、音楽的特徴の分析には藤田の提案するパフォーマンス分析、有場大五郎の日本人の音楽についての分析法をとりいれました。

その結果は、次のようにまとめられています。萬歳の起源は、奈良時代に中国から伝わった踏歌であるという説が有力です。尾張萬歳は、13世紀の終わり頃に名古屋の長母寺の無住国師が仏教を基に作った萬歳を寺男の親子に与え、さらに彼らがそれに節をつけてできた法華経万歳が始まりといわれています。やがて聴衆が「面白み」を求め始めたため、笑いを誘う御殿萬歳や人込み萬歳などが作られました。本研究では、現在も頻繁に演じられ、子どもたちにも指導されている御殿萬歳に焦点を絞り、その音楽的特徴を明らかにしました。

私が取材した東海市の人々は、土地が農耕に適さず貧しかったため、冬の農閑期になると関東・関西・東北など、各地に出かけては萬歳を行う「門付け」で収入を得ていました。しかし、暮らしが豊かになるにつれてこのような出稼ぎに行く人は減少しました。「門付け」は昭和50年以降はほとんど行われておらず、私自身も舞台以外では観たことがありません。現在では萬歳保存会が作られ、正月の行事や式典などの舞台で萬歳を演じ、また後継者の育成のため、東海市加木屋小学校での子ども御殿萬歳の指導にも力を入れています。

御殿萬歳は、大変音楽的であり、太夫一人と才蔵が四人または六人という二役の掛け合いによって演じられます。ひと呼吸で唱えられる歌のフレーズは、一定旋律パターンが2つか3つ結合して作り出されています。それぞれのフレーズには、有馬の示した日本人が歌いやすい旋律、無半音五音の存在が確かめられました。フレーズの歌い方にもいくつか種類があり、太夫と才蔵がユニゾンで歌ったり、一つのフレーズを太夫と才蔵が半分づつ歌う場合もあります。歌詞には「キリキリ カラカラ」など特徴的な擬音語が使われ、徐々に速くするなどテンポを変化させ、観客を盛り上げます。

このように、東海市の萬歳は社会の変化にもかかわらず、今日まで伝承されています。私たち日本人の心を楽しませるのは、尾張萬歳の音楽が日本語に自然な音楽表現であるからといえるでしょう。

 

【シンポジウム】

「リズム」と「間」のせめぎ合い

パネリスト:西川まさ子(ゲスト、日本舞踏西川流)、大西友信(コーディネーター、名古屋音楽大学)、江村哲二(金城学院大学)

今回のシンポジウムは、長年日本音楽を研究されている大西友信氏のコーディネートによって、日本音楽の中では非常に難解な概念である「リズム」と「間」の問題に光をあて、パネリストとして、絶えず日本を意識して活動されている作曲家の江村哲二氏とゲスト・パネリストとして実践の場で、意識するしないにかかわらず「リズム」と「間」の問題に直面されている西川流舞踏家の西川まさ子氏をお招きして行われた。

最初に大西氏よりシンポジウムの趣旨説明と日本音楽の「リズム」と「間」の問題について基本的な概念の説明があった。日本音楽のリズムは「拍」が基本であり、その拍は西洋のように強弱の概念では捉えることが出来なくて、むしろ表裏(おもて・うら)といった平面的なリズムで考える必要がある。又拍は自然の流れがそうであるように「伸縮」することもあるし、時間の流れを止め、空間的な拡がり即ち「間」を含めた概念としても捉える必要があると話された。そしてこの「間」は、茶道や武道と同じく修行を積んで始めてその妙境にたどり着く「道」(どう)と同じように理解することが必要であると言われた。

次に江村氏は、最初に、ウィーンの「シェーブルン宮殿」の整然とした庭園と京都の「竜安寺」の空間を感じるような庭との比較から西洋と日本の文化の違いを分かりやすく説明された。このことは音楽でも、例えばバッハの作品にしろ現代のシェーンベルク・メシアンの作品にしても、大変システマティックに出来ている点で西洋音楽の特徴であることが十分理解できると言われた。そこでご自身の作品で、西洋とは違う時間の流れや時間の流れが伸縮自在になっていることまた「間」を素晴らしく生かした作品の紹介をして頂いた。

次に実際に舞台で活躍されている日本舞踊の西川まさ子氏からは、舞踊というのは音楽とどのような関わりで踊っているのかを実例をまじえて話して頂いた。舞踊は言うまでもなく音楽がないと踊れないが、その関係は微妙なところがある。例えば常盤津や清元等は歌ではなく三味線のリズムと一緒になった踊るのが特徴であると紹介された。そのため三味線より前に「振り」が出ることは、ないという話であった。それと舞踊には「ホウ」とか「チ」とか言って足を上げたり下げたりする「型」があるため型を優先させて踊ることが必要になってくるという事であった。「リズム」とか「間」というものは身体の中では実際に感じてはいるとは思うが、理屈で踊ることは嫌われる傾向があるのでそんなことはあまり考えたことはないと言うことであった。

最後に時間が余りなかったが、少しだけフロアとの話し合いを持った。日頃、日本舞踊について触れる機会が少ないせいか、質問・意見は西川まさ子氏に集中した。村尾忠廣氏や北山敦康・大西友信・南曜子・名市大大学院生の各氏から時間の流れや踊りを止める「止め」の問題や「息」・「三味線と踊りとの関係」・「間」の取り方・「ベタ付け」という踊りと伴奏との関係との問題などが質問されたが、西川氏はそれぞれに具体的に答えるというよりは、そんなことは余り考えたことはないし、そんなに分析的に考えて踊っているわけでもないと言うことであった。理屈よりもむしろ身体の中に入っているものを表現しているに過ぎないという雰囲気の答えであった。実はこれらの質問自体がいかにも西洋的で、私自身はむしろそこに日本と西洋の違いを感じて大変興味深かった。今後は西洋とばかり比較するのではなくアジアの中での日本舞踊を考える必要もあるのではないかと感じた。

なお最後にコーディネーターの大西氏より本日の「テーマ」の「せめぎ合い」は「うらみ合い」・「にくみ合い」という意味も持つため、余りふさわしいタイトルではなかったという旨の発言があった。


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