第69回例会報告


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日時:2001年9月29日(土)  13:30〜17:00
会場:皇学館大学神道博物館講義室
    伊勢神宮内宮神楽殿

【研究発表】

■F.ChopinのBallade における詩的想念
 /A. Mickiewiczの Konrrad Wallenrodとの関連において

長友由佳

■音楽と複雑系

吉田友敬

■K. ペンデレツキの声楽作品における音と言葉の関係

高岡千寿子

【特別講演(雅楽の演奏と講演)】

西山嘉代子(皇学館大学)

東倉利行(伊勢神宮)

【研究発表から】

F.ChopinのBallade における詩的想念
/A. Mickiewiczの Konrrad Wallenrodとの関連において

長友由佳

  中世の西ヨーロッパのコミュニティで発生したバラードは、それぞれの独自の言語表現において語り部により口伝されていた。その内容は、各コミュニティの歴史的、文化的事象の伝承と保存であり、時とともに娯楽的なものとなっていった。語り部の口調や表現方法、物語の展開のテクニックについても技巧を凝らすようになり、聴衆の希望を取り入れて即興的な展開を可能にした。このような、西ヨーロッパのバラードの特徴は、本研究でとりあげようとしているChopinやMickiewiczの祖国であるポーランドのバラードとの関連性が認められるとパラキラスは述べ、確かに、彼らの経歴からも、このことについての推察は可能であると考えられる。
 シューマン(R.Schmann)の“Gesammelte Schrifte uber Musik und Musiker”、あるいは、ヒュネカー(J.Huneker)の“Chopin:The Man and His Music”などから、ChopinのBallade Op,23が、Adam Mickiewiczのリトアニアとプロシアの歴史物語である叙事詩《Konrad Wallenrod》をテキストにしているということが明らかになった。そこで、同作品を読んでいくと、この物語の唯一のBallade《Alpujarra:アルプヤーラ》に注目するに至った。
 このBalladeは、18Stanzaからなる4行詩であり、あらすじは、主人公が戦いに敗れ、敵の指揮官をはじめ、すべてのもの達に敬意を表すために抱擁とキスで礼を尽くしたあいさつをしに行く。が、実は、敵のすべての者をペストに感染させ、皆殺しにするという策略によるものであったことを告白し、最後には皆が死ぬというものである。このAlpujarraに注目した理由は、この物語に唯一のBalladeであり、また、この物語が強く訴えている民族の一員としての誇りと、祖国への強い想いが強烈に表現されており、このことは、Chopinの心の中に存在していたものと通じ合うものであったと推察されるからである。そこで、このKonrad Wallenrodの中のBallade《Alpujarra》が、ChopinのBallade Op,23の創作に関与しているという仮説のもとに、音楽とテキストについて、形式、内容、そして語りについて比較し、その整合性について検証してみた。

 本研究では、Ballade Op,23を、ドラマティックな展開を明瞭にするために、古典Sonataの形式理論を基礎にし、また、Alpujarraは、物語の基本的な展開のパターン(状況→混乱→展開→解決)に比較分析した。すると、物語の”展開“が  Codaの前半まで続き、Codaの後半で物語の”解決“の部分が登場する。その結果、 物語の“解決”がとてもあっけないけれども、非常にドラマティックに展開されていること、そして、ここに至る展開部では、吟遊詩人が主題の変容や即興などのテクニックをもって歌いつづけている様子を描いた、非常に長い展開が行われていることが、特徴として見えてきた。
 Ballade Op,23とBallade《Alpujarra》について、楽曲と物語の展開を比較していくと、物語の内容と音楽の進行に逐次的な整合性を認められるには至らなかった。テキストから読み取れること以外にも、Chopinが表現したかったこと、つまり、詩人の口調と彼の感情の変化、あるいは、その語りの聞き手(Chopinも含まれている)の心情についても、Op,23に表現しようとしていたのだと推察される。バラードの詩の形式、そして伝統的な詩の語り口調や、吟遊詩人の即興的なテーマの省略や拡張を作品中に表現し、また、音楽の構造を工夫することにより語りの情景を表現したことが想像される。
 このように、ChopinがMickiewiczのBallade《Alpujarra》から読み取った内容を、音楽の中に存在させた語り部=詩人に語らせているという解釈ができ、Op,23がBalladeであって、Sonataではないと考えられる大きな理由がここにある。しかし、Op,23が必ずしもAlpujarraに結びつくものとはいいきれず、Konrad Wallenrodの物語全体についての展開との関連性についても検証する必要があると考える。



音楽と複雑系

吉田 友敬

本発表では、音楽と複雑系、ひいては音楽に対する自然科学的アプローチの持つ意義について、主な手法を紹介して検証する。
近年のアプローチで最初に話題を呼んだのは1/fゆらぎという見方であろう。これは、音楽の諸要素を記譜上、あるいは音響データを基に、周波数解析を行い、そのパワースペクトルが周波数の何乗に比例するかを見るものである。その結果、ノイズや騒音は、一般に、周波数に対する特性は見られなかった。また、自然の風景など、急激な変化に乏しい(ありきたりな)データでは、fの2乗に反比例するものが多い。自然界には、これらのちょうど中間に当たるfの1乗に反比例する変動も普遍的に見られ、そよ風やせせらぎの音など人間の心地よさやα波との関連が示唆されている。音楽に於いても、モーツァルトなどの多くの曲で周波数ゆらぎに1/fが見られることがわかっている。この見方の問題点としては、、1/fゆらぎをもたらすメカニズムが、音楽などの高度な現象の場合に説明が付きにくいこと、音楽的・心理的意味・構造との関連づけが困難なことが挙げられる。非常に普遍的で重要な示唆を持つ現象であるにもかかわらず、特に後者の理由によって、音楽学・音楽心理学の分野では、その有効性はあまり認められていない。
 次に、フラクタル幾何学がマンデルブロによって提唱されて以来、音楽におけるフラクタル性が指摘されるようになった。フラクタルとは、自己相似性(いわゆる入れ子構造)のことである。木の枝の形、リアス式海岸の海岸線の形、雲の形など、フラクタルは自然界に多く見いだすことができる。音楽に於いても、長いフレーズと短いフレーズの間に相似性が認められたり、再帰性(繰り返し)が重要な要素となっている。音楽のフレーズ構造は、通常1拍を最小単位とし、小節、動機、楽節、楽段というように、重層的になっており、このこと自体が音楽におけるフラクタル性を示唆しているともいえる。実は、前述の1/fゆらぎもフラクタルの考え方を拡大したもので、時間軸上の統計的な(あるいはランダムな)フラクタルの一種と解釈することができる。
 1/fゆらぎやフラクタルと時期を同じくしてカオスが話題になり始めた。但し、カオスの発見自体は相当に以前のことである。カオス研究者の中に、音楽がカオスではないかという見方もでてきたが、はっきりとした知見として普及するには至らなかった。その後、これらの別々に研究されてきた概念は、非線形という数学的見方に統一され、さらに複雑系という概念へ展開されることとなった。非線形とは、単純な比例関係が破綻するような現象のことであり、人間の意識・心理や社会現象は、当然これに含まれる。複雑系とは、このような諸現象をエージェント(要素)とそれらの[局所的]相互作用によって説明しようとするものである。複雑系のアプローチは、「自己組織化」や「創発」といった概念を提唱し、経済や社会現象への新しい数理的アプローチの道を開いたといえる。この複雑系にあって、「カオスの縁」という概念が重要であり、全く不規則なカオス状態と完全に規則的な状態の境界域に最も複雑で情報生成能力の高い特性が見られるとしている。音楽がこのカオスの縁に当たるという研究もあり、カオスの縁では1/fゆらぎが生じることがわかっている。
 このようないくつかのアプローチに共通していえるのは、前述のように、それが音楽的・心理的意味・構造と結びつきにくいことである。この溝を埋めるためには、人間の認知活動について、脳波を含む生体現象のより深いスキーマを解明することが必要である。また、このために適した、新しいアプローチ手法の検討も意味があるであろう。発表者らは、この目的で、リズムにおける引き込み同調現象に注目している。引き込み同調とは、複数の非線形振動子が、互いに同じ周期で振動するようになることであり、物理的、生理的、行動的、意識的の各レベルで生じている。特に、高次元系での引き込み同調は、単純な周期的変化には帰着せず、持続的なゆらぎや脱同調を伴う。意識と引き込みの関係は、引き込みが無意識の現象とする研究者からは不自然に思われるようであるが、少数ながら、これから解明されるべきこととして、何人かの先見的な研究者によって追究されている。



K.ペンデレツキの声楽作品における音と言葉の関係

高岡 千寿子

 西洋芸術音楽において、1960年〜70年代は一種のパラダイム転換が起こった時期であった。恒常的発展や革新に規定されたモダニズムの極みとしての「前衛」の価値が解体してゆき、代わって様々な要素の併置によって生み出される多元性と、そこに起因する多義性が、この時代を特徴づける。ペンデレツキ(Krzysztof Penderecki, 1933-)のクラスター期(発表者の分類。ペンデレツキにおいてクラスターが技法の中心となっていた、1960年ごろから1974年ごろを指す)は、この時期にぴったりと重なり、また用いられる技法もそれらと共通するものが多い。例えば旋律等の引用、様式引用による諸要素の併置や、テキストを聴取不能にする行為は、作品の多義性を生み出す。本発表は、この時期のペンデレツキの声楽作品に見られるこうした多義的様態のひとつである、テキストを音楽化する際の多義的傾向―すなわちテキストを分解したり重ね合わせたりして、テキストを聴取不能にするという行為、あるいは喋ったり叫んだりといった噪音的手法による言語と音楽の領域を曖昧にする行為−について、考えるものである。50年代から多くの作曲家によって開拓されてきたこれらの技法は、ペンデレツキのクラスタ?期声楽作品においても一貫して追求されている。しかし、一方ペンデレツキのクラスター作品は、そのような外面の状況とのアナロジーに反して、多義的様態のうちにも、一義性を指向するさまざまな装置が認められ、こうしたポストモダンの潮流とは相容れないところに存在するようである。そのことを考えるために、まず今世紀に起こったこのような音と言葉の新しい関係を概観し、イヴァンカ・ストイアノヴァの言説を援用しつつ、具体的な箇所の分析を提示する。
 現代の声楽作品におけるテキストと音楽の新しい関係が明確になったのは、1950年代と考えられる。L.ノーノによるテキストのシラブル分解による使用に続き、M.カーゲルの囁き、叫びなど歌以外の要素の使用、K.シュトックハウゼンやL.ベリオなどによる電子音楽の領域における電子的に変換された音声の使用などは、どれも言葉と音という2つの領域の境界を曖昧化し、テキストの聴取による理解を不可能にする現象である。
 イヴァンカ・ストイアノヴァは、こうした現象をポスト記号論的な近代文学理論との関連において捉える1)。彼女が考えているのは、テキスト-音楽間の区別の破棄によるテキストの音楽化と意味作用の空無化2)、そしてそのことによる、身体的欲動という領域への開かれである。つまり、使用されるテキストの音声素材の分解や細分化、或いは言語-音楽間のファジーな領域に属する音響素材の使用によって、言語音響両素材の変形、変質のための多様な処理がなされた結果、言語、音楽両装置間の区別の除去と無視が起こり、それ故テキストの線的な意味作用は無と化し、その本来の機能を停止する、そしてそこに、意味の定立に先立つ言語以前の領域が浮上する、というように考えられるが、このように多義性へと振り替えられたテキストは、もはや本来の言語伝達作用は行わず、音楽-言語の境界解消による音楽的原-言語のうちに再構成されることとなる。このことは、まさにJ.クリステヴァの間テクスト性(あらゆるテクストは様々な引用のモザイクとして作られており、すべてのテクストは他のテクストの吸収であり、変形であるという考え方)に通じるものであり、それは作品をアノニマ(無名性)へと向かわせる。実際、作品の意味不在や作者の匿名性は、新しい潮流に顕著なものである。
 しかしながらペンデレツキの作品において、こうした様態を造り出しているのは、結局作曲家の意図なのであって、そこに作品の意味や主体が抹消されているわけではない。それは、具体的作品の分析において明らかとなる。ここで作曲家は、明らかにそこに添えられたテキストの音楽化を意図している。したがって言葉の意味は、その場では消失しているが、音楽化された形で存在するのである。さらにテキストの音楽化は、もとのテキストでは表現し難いような深い幻想をもたらす。それは通常の言語概念では、決して得られないような身体的情動の領域に属する。ここに、ペンデレツキのクラスター作品の多義的様態の意味を見い出すことができるであろう。



1)これに関しては、以下の論考を参照した。

(1)イヴァンカ・ストイアノヴァ「ことばと音?中心かつ不在」岩佐鉄男訳  戸澤義夫、庄野進編『音楽美学?新しいモデルを求めて』所収[229-253頁]勁草書房、1988年。
I. Stoianova, "Verbe et son -《centre et absence》." In Geste-texte-musique (Paris: Uniongenerale d'editions,1978).
(2)Ivanka Stoianova, "Das Wort-Klang-Verhaltnis in der zeitgenossischen Musik: Formbildende Strategien in der Verwendung der Sprache"( Die Ubersetzungen der franzosischen Zitate wurden von der Autorin selbst verfasst.) In Zum Verhaltnis von zeitgenossischer Musik und zeitgenossischer Dichtung, Herausgegeben von Otto Kolleritsch[, pp.51-67](Wien・Graz: Universal Edition, 1988).
(3)I. ストイアノーヴァ「身振り・テクスト・音楽-音楽的言表とそのプロ セス」小林康夫、岩佐鉄男訳『エピステーメー』1976年8+9月号。
2)ストイアノヴァ、前掲、1988年、229頁。


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