第68回例会報告


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日時:2001年5月26日(土)13:30〜17:00
会場:名古屋市立大学芸術工学部

【研究発表】

■Kantele -森の民が求めた音色-

岡田 実紀

■16世紀後半のイタリア宮廷社会における音楽家の身分
            〜貴族と職業音楽家のはざまで

丹羽 誠志郎

■カーネギー・ホールの経営ストラテジー
        〜マーケティング、資金調達、プログラミング〜

大西 たまき

【研究発表から】

Kantele -森の民が求めた音色-

岡田 実紀

1.カンテレの起源
 カンテレは、今から2000年前から、すでに存在していた、と言われる、フィンランドの伝統楽器です。
 カンテレができるまでに、当時の人々が影響を受けた楽器として、2つの説があります。1つはアラビアのカーヌーン。もう1つはロシアのGusliです。実際、そのどちらの楽器の要素も取り合わせたようなものに見えます。どちらにしても、カンテレは、商売、友人関係、結婚など、人間関係の交わりの中で作られた楽器と言えるでしょう。
 カンテレ、または、それに大変近い楽器が盛んに作られ、演奏されていた地域は、現在はロシア領である、カレリア地方一体が中心です。そこからフィンランド国内の南東部地方、中西部地方へ広まっていきました。
 またバルト三国では、ラトビアの楽器Kuokuleと、リトアニアの楽器Kankulesは、フィンランドのカンテレとほとんど同じ形をしています。エストニアのカンテレは、”長い羽を持つカンテレ”と言われているように、糸巻きより上の部分に向かって、羽のように板が伸びています。この羽の効果で、より大きな音が出ます。また、紐を首から提げて、フォークギターのように演奏されます。これは、エストニア独特のスタイルです。

2.カンテレの構造
 カンテレは、森で仕事をしていた男たちが、仕事の合間に趣味で作った楽器です。彼らは、様々な木でカンテレを作り、どんな音がするかを試しました。現在は一般に、底と側面は松で、蓋は樺、白樺が使われています。
  作り方は、初めの頃は、一本の丸太をノミでくりぬいて作るのが一般的でした。気に入った音が出るまで、底面から削ったり、側面から削ったりして試作を重ねたようです。また、上面から削って、別に作った蓋を上にかぶせ、白樺などの木の皮で作ったベルトで蓋を固定するタイプのものもありました。現在は、カンテレをいくつかの部分に分けて作り、接着剤で張り合わせる方法が一般的になっています。
  弦は、初期には、馬の尻尾の毛や、動物の腸をねじったものが使われていました。その後丈夫な合金に変わり、そして、現在のスチール弦が一般に使われるようになりました。
  また弦の数は、始め3〜5弦でした。なぜなら、その頃の曲は、3つ、ないしは、5つの音によって曲が作られていたからです。その後、1800年代から、弦の数が増える傾向にありましたが、14〜15弦までで止まりました。古くからの旋律や、カンテレの製造技術を保つために、それより多く弦を増やさなかったようです。20世紀初め頃になると、それまでより大きな形のカンテレや、半音階機構を備えたメカニックカンテレ、さらには、コンサートカンテレと呼ばれる新しいカンテレが作られるようになりました。そのようなカンテレの弦の数は、36〜39弦もあります。

3.詩歌とカレワラ
 カンテレは、曲だけで演奏される他に、ダンスの伴奏や、歌の伴奏としても使われていました。自分で詩を作り、そこに曲をつけて歌い、家族や友人、恋人などへ曲を聴かせていたのでしょう。フィンランドの民族叙事詩カレワラも、曲に合わせて歌い語られ、伝えられていた詩が集められたものです。当時の詩は、韻の踏み方が決められていたので、詩と曲の組み合わせを、いといろと変えて楽しんでいたようです。

4.演奏法
 カンテレは、椅子に座って膝の上にのせて弾くか、または机の上に置いて弾きます。
 奏法は、指の腹で、弦を一本ずつ爪弾いて弾く方法が、伝統的な弾きかたです。また、主、下属、属和音のコード進行を、指や小さな木の棒でたたいて弾く奏法も、昔からあります。また、5〜15弦のカンテレなどは、弦によってどの指を使うかを決めて弾きます。新しい奏法としては、両人差し指だけで弾く奏法、ハーモニクス奏法、スライド奏法、他などもあり、かなり自由です。

5.伝承
 もともとカンテレは家の中や森の中で弾かれ、そのメロディーや歌は、口伝により伝えられいました。また、小さな教会や家庭での礼拝では、賛美歌の伴奏楽器として、弓で弾く一弦カンテレが使われていました。
 現在では、保育園や幼稚園、小学校の音楽教育の場で、5弦カンテレが使われています。

6.まとめ
 カンテレを自在に弾けるのは、フィンランドでも、カンテレ演奏家や、愛好者にとどまっています。しかし、フィンランドの人々にとってカンテレが、愛すべき楽器であることは確かです。それは、カンテレが、自分たちの民族の歴史であり、誇りにもつながるからでしょう。
 カンテレは、人々の祈り、願い、喜び、悲しみ、愛など、あらゆる感情を込めて作られ、弾かれた楽器です。その行為は、カンテレの美しい、透きとおった音色を聴けば、理解できるでしょう。そしてその音色は、今でも私たちの心をとらえるのに十分な力を持っています。



■16世紀後半のイタリア宮廷社会における音楽家の身分
            〜貴族と職業音楽家のはざまで

丹羽 誠志郎

 1600年ごろに最初のオペラ作品が上演されたといわれるが、ではその「最初のオペラ歌手」は誰だったのか?という素朴な疑問が問題の始まりである。
 本発表では、芸術パトロン活動におけるmecenatismoとclientelismoという分類を16世紀後半のフェルラーラ宮廷音楽に応用し、そこで活躍した宮廷音楽家たちのあり方を分析する。
 mecenatismoとは、パトロンが芸術活動を行わせるために芸術家を雇ったり、作品を注文するやり方である。パトロン活動といって、ごく自然に思い浮かべるタイプである。これに対してclientelismoは、宮廷官僚が本業で、その業務の一環として芸術的な活動に携わるというやり方である。前者がプロ芸術家の仕事だとすれば、後者は貴族・宮廷人が芸術活動に携わるやり方である。
 フェルラーラの女性アンサンブルは、本来慎ましくしていることが要求された貴婦人たちが、サロンで高度な技巧を披露したという点で特殊である。この営みには、1580年を境に初代と次代の2グループがあった。
 初代の女性たちは、フェルラーラでも最も身分の高い貴婦人たちでだった。ルクレツィアとイザベッラのベンディディオ姉妹がその中心だった。彼女たちの演奏は大変に素晴らしく、宮廷でもてはやされた。しかし、彼女たちはあくまでも貴族であり、歌は高度な余技でしかなかった。1580年に、歌の主役を次代の女性たちに譲ったあとは、サロンのメンバーとして、聞き手に回った。歌をやめても彼女たちは貴婦人であり続けた。これは明らかにclientelismoである。
 次代の女性たちはさらに高度な技術を誇った。その中心はラウラ・ペペラーラである。彼女たちは低い身分の出身ではなかったが、大貴族でもなかった。彼女たちはまず音楽の才能ゆえに宮廷に出入りする機会を得て、そこに自分の居場所を見つけた。例えばラウラはトゥルコ伯爵と結婚し貴族の仲間入りをした。しかし、そこに至る手続きにはいくらかmecenatismo的な要素がある。
 女性歌手たちとともに活躍したバス歌手ブランカッチョは極めて興味深い存在である。彼はナポリの小貴族で、人生の多くを軍人として過ごした。軍人は貴族の男性が生涯を捧げるべき唯一の職業と考えられていた。彼は初めスペイン軍で、次にフランス軍で活躍した。後には軍事理論書を書いた。
 その一方で彼は音楽の才能と素晴らしい声に恵まれていた。そして仲間の貴族たちと音楽劇を上演したり、アカデミアを結成したりした。しかし、あくまでもそれは軍務の合間の余技に過ぎなかった。
 彼は1570年までにフェルラーラ宮廷のスター歌手になっていた。公爵アルフォンソ2世は彼の歌がお気に入りだった。しかし歌の評判が上がることを彼は喜ばなかった。むしろ軍事理論を評価してほしかった。貴族・軍人として、職業音楽家のように扱われるのは不本意だった。音楽に携わるのであれば、請われてときどき歌う程度、つまりあくまでもclientelismo方式の待遇を要求した。
 しかし公爵は彼の軍事理論に興味がなかった。彼にただ歌ってほしいだけだった。つまり公爵はmecenatismo方式で彼を宮廷に呼んだのだった。
 両者の思惑の違いは最後まで解消しなかった。1583年、ブランカッチョは歌うことを拒否し、雑言を吐き、宮廷を追放された。
 ブランカッチョの事例は没落してゆく小貴族が実質的に職業音楽家として世を渡ってゆく姿の1例である。16世紀後半から17世紀にかけてこのような貴族音楽家が数多く活躍した。最初期のオペラ作品においても、その制作・演奏において貴族音楽家たちの活躍は必須の要素だった。この意味において、いわゆる「オペラの誕生」は、単に音楽の技術発展や様式変化という範囲に納まらず、音楽や音楽家のあり方全体に関わるものだった。



■カーネギー・ホールの経営ストラテジー
        〜マーケティング、資金調達、プログラミング〜

大西 たまき

 現在日本に於ける経済の長期的悪化は、従来企業或いは政府に資金を頼ってきた日本のコンサート・ホール経営にもプログラミングの縮小化或いは経営停止等の深刻な問題をもたらしている。こうした状況下、近年日本の大学にてアーツ・マネジメント学科が設置されている事実からも分かる様に、コンサート・ホール運営に経営視点が一層必要とされてきている。
 本研究はカーネギー・ホールを分析対象に上げ、特にその経営上で必要不可欠なマーケティングと資金調達に対する理解を促すものである。カーネギー・ホールはレジデント・オーケストラも持たない等日本のコンサート・ホールとの類似点が米国の他団体に比べ多く、日本に応用できる点が多いと思われるため、今回の対象に選択した。
 前段階として日本と異なる米国の音楽団体の特徴を概観。米国の音楽団体は独立した非営利団体として存在し自由な活動が可能であると同時に資金を自ら確保する必要もあり、各団体間に競争原理も起き、働く人々に高い経営能力が要求されている。また社会的に非営利団体活動を支える体制があり、例えば非営利団体自体が免税なだけでなくその寄付者も寄付に対して受け取るベネフィットと寄付の差額を免税にできる。以上の様な状況下、米国の音楽団体はマーケティング、資金調達という経営手段を発展させるに至った。
 カーネギー・ホールは現在アイザック・スターン・オーディトリアム(大ホール2804席)、ワイル・リサイタルホール(室内楽ホール268席)の他、美術館、レストラン他の貸しスペースも有し、加えて2002年完成予定のザンケルホールを改築中。同時に年間約700回のコンサートを上演(内オリジナルコンサートは約150回)し約45億円の収入を誇る背景には、プログラミング、マーケティング、及び資金調達それぞれの活動自体が非常に強力であると同時に、各活動間の強いリンクが特に強調できる。
 その芸術活動はオリジナル・コンサートの上演(オーケストラ、室内楽、ポップス、ジャズ・バンド等)、現代音楽の上演・作曲委嘱、教育活動及びコミュニティ・アウトリーチ活動、貸しホール活動等である。これらは(1)芸術的に高く文化的に多様なコンサートの上演、(2)現代音楽の支援、(3)観客育成と専門家への教育活動、(4)財政的な持続性の確保というそのミッションの提示するあらゆる観点に強く結びつき、豊かな芸術内容を可能にしている。同時にマーケティング及び資金調達活動の戦略に合致するようにデザインされている。
 例えば、ニューヨークの公立学校と提携した教育プログラム「LinkUp!」の展開は資金調達とプログラミングの戦略例だ。これは元来ニューヨークの公立学校における音楽教育の貧困に対して、カーネギー・ホールがコロンビア大学教育学部との協力で始めたものだが、その背景にはニューヨーク市・州からの多大な援助実現への眼があった。すなわち市に代わってカーネギー・ホールがその知識、スキルで生徒を教育するという発想で結果、市や州他の政府から年間1億円以上の寄付を受け続けると同時に、今回のホール改築にも約20億円の寄付を市から受けている(因みにホール自体がニューヨーク市の持ち物で文化指定財としても保護。経営は2つの非営利団体カーネギー・ホール・コーポレーションとカーネギー・ホール協会による)。
 舞踊、映画も上演するリンカーン・センターに比べ、音楽分野に絞り他でないような音楽家を世界中から招宴するのはカーネギーのプログラミングとマーケティングの戦略。つまり「音楽の殿堂」としてのブランド・ネームを獲得、イメージづくりに成功している(このイメージは資金調達にも貢献)。またコトラーの定義「団体がその活動目的に合った方向性で観客を育成、満足させることを目指し、創造的、生産的、収益的に市場に関わる過程」(Standing Room Only)の様、各コンサートで平均9割以上のチケット販売率を上げているカーネギー・ホールのマーケティング活動は観客とのコミュニケーション活動の成功結果だ。豊かなプログラミング内容で聴衆を引きつけ、チケット販売の徹底管理及び観客調査に基づく戦略的、積極的なプロモーション活動を展開する。具体的にはチケット購買者(或いは潜在的購買者)を寄付額、購買頻度他の条件で分類化し、各層に合わせた内容(パンフレット、ハガキ等)を送付。電話での勧誘も行う。またチケット販売状況が芳しくない時は追加のプロモーションを行う。
 こうした中で日本のコンサート・ホールが簡易に採用できるものは、例えば小口の寄付者、すなわち友の会メンバーの育成、そして内部的にチケット購買の徹底管理であろう。しかしより具体的な提案は今後の研究課題として残したい。



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